判例と昔話

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Date:2015.04.28

司法試験まで2週間。受験予定者はほぼ準備を終えているであろうし、心強い激励は各方面から届いているだろうから、閑話を少々。

 

法科大学院ができてから、判例とどうつきあうのかをこれまで以上によく考えている。判例を分析する基本的なスタンスは昔から変わっていないが、授業等での判例の取り上げ方や伝え方は変わってきたように思う。実は、私がこのように考えるようになったきっかけは、法科大学院の設立よりも5,6年遡る。

この年、研究者、弁護士、大学院生によって行われていた小規模の定例研究会で、最高裁大法廷で出されたばかりの判決を取り上げた。後輩が担当して詳細な報告を行ったが、その内容は同判決を厳しく批判するものであった。その詳細な分析と妥当な批判に対して、特に疑問を持つことなく、他の参加者の評価も同じだろうかなどと考えながら報告を聞いていた。報告後、参加者のある弁護士がまず発言することになったのだが、同氏は刑事実務に厳しい目を向け、刑事弁護の充実に尽力してきていた弁護士だったので、さらに痛烈な判決批判が開陳されるのであろうかとその発言に耳を傾けていた。しかし、そうではなかった。発言の内容を私なりに要約すると、実務家としては、判例批判だけで終わってはあまり意味がない、評価すべき所や弁護活動において参考となる論理の有無・内容を抽出して今後の実務で活用するための事柄を導き出さなければならないのだ、となろうか。批判的分析に加えて「活用する」という視点からも検討することで、判例の内容をさらに詳細に理解することが可能になった。

当時は、理論と実務の架橋という考えは現在ほど明確に意識されていたわけではなく、学説と実務との乖離はやむを得ない現実のようにも考えられていた。判例評釈では、積極的に評価すべき内容はもちろんそのように分析評価していたが、どちらかと言えば、批判することに重きを置いていたことは否定できないし、そのこと自体は誤りではないだろう。しかし、少なくとも、今後、自分が実際に「活用する」という視点で判例を分析することはあまり考えていなかったと思う。

一方、司法試験では、判例を重視しているという指摘がある。確かに、最高裁判例の枠組みに沿った検討を求めていると思われる出題が多いという印象である。実務家を目指す試験であるため、このような傾向を一概に否とは言いがたいが、学生に誤った(あるいは不適切な)メッセージとして届かないようには心がけたい。たとえば、批判的視点が欠落して、判例を批判することを躊躇していないだろうか?判例を何らかの解答・正解と考えてその「正解」を知識として蓄積し、記憶しようとすれば、判例を充分に検討してその理論や枠組みを活用できるような理解は得られない。学修者として自ら活用すべき内容を身につけるためには、批判的視点が不可欠である。批判だけにとどまってはならないのと同様、受け入れるだけでは活用できるには至らないということになろう。

最近の判例とのつきあいを考えていると、先述の昔話を思い出した。判例評釈に限らず、問題点の抽出のためには、当然のことであるが、何が問題なのか認識できなければならない。無批判に受け入れる姿勢では問題点の認識は困難となる。問題の解決には、そのためのツールを獲得しなければならないが、そのツールを活用できるほどに身につけることを目指さなければならない。いずれにも共通するのは、原理原則をふまえた条文や判例の充分な理解だが、そのためにも適切なアプローチと視点をしっかりと確立しておきたい。重要な理論や枠組みを真に獲得できるのは、批判的視点の先にあるのだということを昔話とともに再確認している。

 

閑話休題。皆さんの健闘を祈っています。(M)

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