自由は平等に配分されているか?
Date:2013.12.02
寒くなり、風邪を引いている人が増えています。私ものど風邪を引いてしまいしました。北京大学図書館訪問、中国国家図書館訪問、高野山大学研修会参加、国士舘大学での世田谷6大学コンソーシアム図書館相互利用委員会出席で、疲れ気味のようです。皆様も、どうぞお体には気をつけて、ますますご活躍ください。今回も私の従来の疑問に関する堅い話で申し訳ありません。
人間社会において、自由はあらゆる人に平等に配分されているであろうか。経済的に余裕のある人に多く、不遇な人に少なく配分されているのか。体力的に見て若者に多く、年配者に少なく配分されているのか。後者は、一人の人間の人生の過程において必ず通る問題だから殊更問題として触れる必要は無い。問題は、前者である。
自由は、一般に三つに分類される。第一は、誰の拘束も受けないこと、拘束のないこと。第二は、自らの意志に基づいて行動すること、行動できること。第三は、自らの哲学に基づいて責任を持って行動選択し実践すること、実践できることである。
自由は、一般には第一の意味として取り扱われる。したがって、自由に責任は伴わないと考えられ、無責任を帰結する。そこで、多くの教育者は、自由は責任を伴う、つまり、自由ないし自由活動は社会的評価を伴い社会的対応を感受しなければならないと、自由に対応する責任の重要さを強調する。これは、第三の意味に繋がる。第三の意味の自由は、道徳的人間としての意味において正当な定義である。そして、第二の意味は、法律的に重要な責任のメルクマールとなる。
第一の意味として自由を捉えれば、経済的強者に自由は多く配分され、経済的弱者には自由はあまり配分されない。これが大きな社会問題の原因であり見方である。しかし、第三の意味で自由を捉えれば、誰もが自由を平等にもっていることになる。自分の哲学を磨くこと、真摯に責任を意識して、行動選択し実践すること、これによって、現代社会の自由を謳歌することを忘れてはならないであろう。(H)