悟りは、まだか。
Date:2012.02.19
鴨長明は、出家をしたのち58歳のとき有名な『方丈記』を書いた。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。・・・・・」。少年のころ、自伝的あるいは自画像的というべき方丈記を読み、「老荘思想」の無為自然、達観や悟りを感じた事を思い出す。
その時は、これくらいの歳になれば、きっと迷える魂は安定し、悟れるのではないかと思った。その歳に、今、自分がなった。キリスト教でいう七つの大罪「傲慢」、「嫉妬」、「憤怒」、「怠惰」、「強欲」、「暴食」、「色欲」という悪魔を心から完全に追い出すことができたか。膨張する自己愛のために、知性を悪用することはないか。倫理的に大罪を犯すことのない道を歩んでいるか。人や世間の実態や動向を超越できているか。その上で、正義と善を愛しているか。
この『方丈記』を読み直し気付いたことがある。身分が高く大きな家に何不自由なく住んでいた長明が、地震、洪水、火事、遷都などの経験を経て、小さな四畳半の方丈の家に住む身になっても、家の中に、阿弥陀如来と普賢菩薩の絵像を掛け、法華経の法典を出家の支えとして大切にするとともに、若き頃にこよなく愛した和歌、管弦、往生要集の抜き書きを保管し、また得意の琴、琵琶を身近に置いているのである。
このことから、悟りとは、七つの大罪や百八つの煩悩を超越するだけでなく、人生を懸けて愛した思想(真理)や芸術(美)とともに、善なる生き方を前向きに実践していくことであると確信した。そして、悟りは、世捨ての消極的なものではなく、世の中にあって積極的な生き方を冷静に行うことを意味していると思う。悟りは、加齢によって自ずと到来するという境地ではなく、真・善・美を積極的に求め、自分の生を貫徹する中に見出しうるのであろう。(H)