「分かる」と「守・破・離」
Date:2013.02.17
法科大学院に入学して初めて法律学を勉強する人を応援する意図で、標題について、少し考えていることを記述しておくことにする。
必要性や関心から、何か新しいことを始めたとき、その後の学習過程はどのようになっているのであろうか。学習過程において、苦しみや喜び、落胆や熟達感、混乱や納得に遭遇しつつ、それらを乗り越え、新しいことを習得していく。そのための見通しを立てておくことは、心構えを強くして目的達成に役立つことになろう。
まず、学習を開始したとき、目標や理想との大きな隔たりに驚くことになる。つまり、(1)分からないことが分からない状況におかれるのである。暗中であるが、焦る必要はない。小説や映画でも、プロローグだけではストーリー全体を理解できないのは当然である。集中して、模索を続けることである。
次に、(2)分からないことが分かる状況へと進む。ある程度の理解が可能になったとき、すなわち、全体像が朧げながら見え始めると、全体へと結合させるための不足箇所が判明するのである。有意義でよい質問を発するようになり、分かることの喜びを知ることになる。かなり学習は進化しているのである。
その上で、(3)意識したらできるようになる段階が始まる。人間は試行錯誤するが、理解を積めば、意識したらできるようになる。この段階では、確かに時間はかかるが、形は整い始める。「形式は内容を表す重大な一要素である」。プレゼンテーションや法律文書に時間をかければ、かなり良いものができ始める。
そして、(4)意識しなくてもできるようになる。つまり、目標を達成した領域に入ったことになる。もちろん、その仕事を完璧にこなすには、自らの仕事に就いて、常に、「進歩を求める意識と気概」は必要不可欠であるが、専門家へと近づいたことを意味する。一応の目標達成は、この段階といえよう。
かくして、教えを体得する「守」を終えることになる。守は、指導教授との関係でいえば、指導教授の学派を継ぐことを意味する。広義には、専門家として認知されることを意味する。つまり、法曹として認知されることである。大いに職業活動を展開し、研究業績を発表すべき段階といえよう。
しかし、進歩を求める意識と気概は、自ら無意識に行ってきたことに対する疑いを生じることがある。この疑いは非常に大切である。つまり、自ら行っていることに関わり、自らのより高い理想・理念を創発したことになるからである。新たな疑念は、新たな解決方法を求める。学問の真価がそこにある。これが、「破」である。
そして、自らが独り立ちをする。従来の教えから離れ、独自の道を歩み始める。自分の名前で、主張と責任を取る自説を発信する状態である。換言すれば、「独立自尊」ということになる。人と異なっていても良い。否、異なることにより、多様な分業社会の一翼を担うという、責任を正面から全うすることになるのである。学問的裏付けのもと、信念と勇気により、責任ある社会活動が展開できる。
このように、大まかな航海図を持って学習を始めることは、それぞれの段階での悩みを減らすことになるのではなかろうか。今の自分の位置を知り、進歩のために努力を継続する力の源となり、指導者からの適切な助言を求め、他者との共同学習研究を成功させることになるであろう。
法学未修者の皆さんが、法曹の目標を達成し、社会に羽ばたくことを私どもは、心から応援しています。(H)