永平寺の伽藍と建造物
永平寺とは?
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永平寺は、福井県吉田郡永平寺町志比にある曹洞宗大本山の1つで、寛元2(1244)年、道元禅師により開創されました。創建当時は大仏寺と称しましたが、2年後に永平寺と改められました。応安5(1372)年には後円融天皇から「日本曹洞宗第一道場」の勅額を下賜されましたが、文明5年(1473)の火災により勅額・綸旨が不明となり、天文8年(1539)後奈良天皇により再度、綸旨を下賜されました。
永平寺の伽藍と建造物
道元禅師は寛元2年(1244)越前国志比荘の地に大仏寺を開創し、寛元4年には永平寺と改称しました。770年以上の歴史の中で、永平寺は多くの火災に遭い、また遠忌などに伴い幾度かの伽藍整備を行ってきました。
現存する伽藍は近世から近代に整備されたもので、その境域は僧侶の修行・生活などに関わる法務的区域である七堂伽藍と一般檀信徒を対象とした檀務的区域に分けることができます。
七堂伽藍内にある仏殿,法堂,山門,中雀門,僧堂,大庫院,大光明蔵,監院寮,廻廊(5棟),承陽殿本殿及び拝殿,承陽門,経蔵,松平家廟所門,舎利殿及び祠堂殿,勅使門の計19棟は令和元年度に国指定重要文化財となりました。
七堂伽藍外の発展 近代化と永平寺の変化
曹洞宗では、18 世紀以降、「道元講」などの講組織が各地で作られるようになり、文政 12(1829)年の二祖五百五十回忌に際しての吉祥講勧諭は、江戸の旅行ブー ムと相まって一般参拝者の増加へと繋がりました。また、近代以降の鉄道網の発展により、全国の曹洞宗寺院とその檀信徒、一般観光客の永平寺への参拝・参籠(宿泊)が日常化し、伽藍の拡張や宿坊の整備などが行われました。
禅の里構想と七堂伽藍への回帰
永平寺を訪れる人々は、昭和末期から平成初期にかけてピークを迎えました。この時期、修行僧たちは参拝客・参詣、観光客の対応に追われ、修行以外に割く時間が増加し、修行道場としての永平寺の在り方にも変化が見られるようになりました。
一方で、近年では永平寺への参拝客・参詣、観光客はピーク時の3分の1程度に減少し、永平寺では、これを修行道場への回帰のための好機と捉え、「禅の里」構想を実施しています。「禅の里」構想では、①修行僧が修行に専念できる環境を作り、衆人が認める禅僧を育成し、②在家の人々の心の拠り所として参禅や参籠の研修を充実させるため、七堂伽藍外に新たな宿泊施設を作り運営をアウトソーシングすることでより良い禅の体験を提供し、③持続可能な経営を行うための取り組みが進められています。