禅文化歴史博物館The Museum of Zen Culture and History

図書館所蔵資料特別公開「日本出版文化をたどる」(2003.06.17~07.31)

企画展示室
Date:2003.06.17
会 期 2003年6月16日(月)~7月31日(木)
場 所 禅文化歴史博物館

特別展開催にあたって

毎年、夏に図書館で行っている所蔵図書の特別展示を、本年は、禅文化歴史博物館の場をお借りして、同博物館とタイアップという形で開催いたします。
本年は、「日本出版文化をたどる」と題し、宋版・元版・明版という中国の出版物を交え、日本の八世紀後半の木版印刷から、明治期の出版物までをたどれるような展示にいたしました。
一般的に版本というと朝鮮の技術が導入された近世(江戸時代)以降が思い浮かべられますが、仏書は早くから出版されていて、優れたものがあることがおわかりいただけると思いますし、本学図書館の他の追随を許さない点も見ていただけると思います。
また五山版や近世初期の活字本、製版本とを比べられるように展示してみました。
さらに、本館が近年所蔵するところとなった「いはや」等の筆写本や樋口一葉自筆の「たけくらべ」原稿なども展示いたしました。
お楽しみいただければ幸いです。

図書館長 林 達也

開校120周年記念事業の一環として開館した禅文化歴史博物館も、このたび無事1周年を迎えることになりました。
今回は、大学の頭脳として学問、研究、教育を常に先導してきた図書館の貴重な書籍を一堂に介し、「日本出版文化をたどる」というテーマで構成いたします。
特に蔵書総数約100万冊の中から選りすぐり、奈良時代から明治時代までの出版文化を仏教・禅籍関係資料、文学関係資料などから振り返ります。
駒澤大学の栄えある歴史の中で、蓄積されてきた貴重な書籍の数々を、この機会にぜひご高覧いただき、大学の新たな一面を発見していただければ幸いです。
今回の展示に関し、図書館をはじめとした関係者各位に、改めて感謝の意を表します。

禅文化歴史博物館長 岡部 和雄

展示構成

1)出版文化の始まり

日本の出版文化の初めは『無垢浄光経』、一般には『百万塔陀羅尼』と称されるものである。
奈良時代の女帝、孝謙天皇の発願で天平宝字8年(764)に木造りの三重の小塔百万基を造らせ、畿内の十大寺に10万基ずつ納めさせたものである。
古来から、銅板か木版かなど種々議論されたきたが、現在では木版印刷と、ほぼ認定されている。
印刷年代が明確になる世界最古の印刷物として有名なものである。

2)五山版

展示室はこちら

中世に臨済宗の五山(京都五山、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺、鎌倉五山、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)を中心とした僧俗の関係者によって刊行された書籍の総称。
どちらの五山でも出版が行なわれたが、五山以外の禅宗寺院が出版したものも五山版といっている。
中世出版の中枢をなすその事業は、鎌倉中期に始まり、南北朝・室町前期に盛んとなり、応仁の乱後は衰えながら室町末期まで続いた。
中国の宋・元代における開版の盛行が、日本の禅林に影響を与えたもので、鎌倉末期に刊行された『禅門宝訓』(1287)がそれである。
当時は五山文学興隆の時代で、詩文作成の必要から韻書や唐宋時代の中国人の詩文集をはじめ、経書・歴史・諸子・詩文集に対する需要が高まりこの要望にこたえてこれらの書籍が刊行された。総書目数は280種くらいで、重刊を含む全開版数は410回くらいである。
版式は宋・元・明の方冊本(ほうさつぼん)の覆刻を主とし、すべて整版で、字様は写刻本ではなく、宋刊本のすぐれた宋匠体に倣った覆宋・元刊本が多く日本撰述のものの版式もこれに準じ、付訓本は稀である。鎌倉時代の五山版はほとんどが禅籍である。
南北朝時代は、臨川寺を中心とした春屋妙葩(しゅんおくみょうは)の活躍や、中国人刻工の来住もあり、各地でも出版が行われた。
このように盛んであった五山の開版事業も室町時代になって、禅僧の入明して学ぶものが少なくなり、五山の禅僧にも覇気がなくなり応永年間(1394-1428)ころから京都の五山版刊行はようやく衰運に向かい、応仁の乱(1467-1477)後はまったく衰えた。
五山版はわが国における出版文化史上に特筆すべき意義と価値を持つものであり、禅僧がわが国の文化に貢献した最大のものである。

3)室町時代以降の出版

わが国の印刷方法の主流は整版印刷で、室町末期まで、仏典を中心に行われてきた。
五山版も整版印刷である。その大勢のなかにありながら天正(1573-91)の終わりから文禄(1592-95)、慶長(1596-1614)にかけての頃より、寛永(1624-43)の前半までの半世紀は、活字による印刷が整版印刷と併存した珍しい時期であった。
この江戸時代初期の活字印刷は江戸時代中期頃から新しく起こる活字印刷を近世活字版というのに対して、古活字版という。
寛永の初め頃からは、ふたたび伝統的な整版印刷が盛んになり、以後、明治期を迎えるまで、江戸時代を通じて一般的な印刷方法となった。

4)江戸時代の出版

近世初期は朝鮮と欧州からの活字(キリシタン版)の導入が刺激を呼び起こし、出版文化の担い手に京都の町衆が登場する。
寺院から独立した熟練の職人集団、営業のための資本を蓄積した書肆、著作者、読者が出版文化を成り立たせる要素が京都に集中していた。
17世紀末の京都は1万点に近い書籍を発行している。
整版印刷は、日本語の特質である漢字仮名交じりの文章に便利であると同時に、重版がしやすいことなどから、初期の活字印刷にとってかわり、わが国独自の精巧な整版技法が発達した。
字の美しさばかりでなく、多色刷りの絵画、芸術的な装訂に基づく本作りがみられた。
18世紀から19世紀にかけて読者層も拡がり、出版業の重心は上方から江戸へと展開した。
出版社と読者をつなぐ貸本屋が発達し、印税で生活する小説家もあらわれ、出版文化は社会のなかに根をおろすことになった時代であった。

5)江戸時代の出版物

初期においては、例えば『伊勢物語』などの古典が中心であったが、やがて同時代の著作が出版されるようになる。
出版は文芸書に限定されたわけではなく、教訓書から実用書にいたるまでのさまざまな分野に渉る。
漢字仮名混じり文で書かれた、こうした諸分野の出版物を「仮名草子」と総称している。
「仮名草子」という名称は、その時代に行われていたものではなく、後世につけられたものである。
井原西鶴が出るに及んで、当代を巧みに描いたその作品は「浮世草子」と呼ばれるようになる。
近世は、文芸ジャンルが多様化した時代でもあった。
洒落本・黄表紙などがよく知られているが、歌舞伎などの梗概をコンパクトにまとめた「青本」や都会の日常生活に取材した「滑稽本」も多く出版され、そうしたものは貸し本屋を通じて庶民の間に広まった。
この種のものには挿絵が多数載せられているが、特に歌舞伎の場合には、役者似顔絵や、名場面を紹介しながら、役者や出し物の評判を掲載する出版物も行われた。
近世は俳諧の時代である。
近世初期、貞門・談林の俳諧は古典のパロディーや言葉の遊びを主としたものであったが、芭蕉が出るに及んで、新たな局面を迎える。
ただ芭蕉も30代半ばまでは、貞門・談林に泥んでいたが、30代後半からの晩年約10年は独自の世界を開いていった。
『おくの細道』はその代表作である。また近世和歌は公家(堂上)の和歌を中心に展開するが、良寛はそうした流れとは別のところで、古典の知識は十分もちながら、それにこだわらない、生活感覚のある和歌を作った特異な存在であった。
近世はまた、三味線など音曲の隆盛、あるいは遊郭という悪所もあって、歌謡もさまざまに作られた。
『松葉集』などが知られるが、僧侶も、説教の際に韻律をもった歌謡を使ったようである。
その他、近世初期から、『雍州府志』や『京雀』『一目玉鉾』などの地誌類が出版され、各地の名所名産が紹介され、また絵地図の出版も盛んな時代であった。

6)明治時代の出版文化

展示室はこちら

明治当初は、新文物制度の創生に着手した時代である。
当時欧州においては、自由平等の旗印を押し立て、自由民権の思想が横溢していた。
18世紀以後各種機械、動力による産業革命が起こり、汽車、汽船等の交通、通信が発明され、利用されていた。
永い鎖国から醒めたわが国は、欧州文化のあらゆる産物と思想を輸入することに全力を注いだ。
この時代に印刷・出版界を特徴づけている事柄は、欧州より輸入された自由民権の思想を始めとする政治・法律・経済・教育・文芸に関する翻訳ものの出版が、出現してきたことである。
印刷においては鉛活字を用いる活版印刷が導入され、手動から機械動力へと変化し、工業化により、大量高速印刷が追求されることになった。
両面刷の実現により、多くの内容をよりコンパクトに、より安く提供できることになった。
なお、この時代において、言論機関として新聞雑誌の発行が著しく発展した。

展示資料解説

1階<江戸時代以前の出版文化>

展示室Aハイケース1 <最初の木版印刷物と版木>
無垢浄光経自心印陀羅尼→図書館禅籍善本図録2(むくじょうこうきょうじしんいんだらに)

神護景雲4(770)頃刊

百万塔陀羅尼と通称されるもので、「無垢浄光大陀羅尼経」に説かれる6種の陀羅尼のうち、根本・宗輪・自心印・六度の4種の陀羅尼を印刷し、そのいずれかの1種を胡粉を塗った木製の小塔、百万基に納めたもの。
陀羅尼は、字面が縦5cm位、横50cm位(陀羅尼の種類により不同)で、根本40行・相輪23行・自心印31行・六度14行で印刷され、刊年の明らかな現存印刷物としては、世界最古のものといわれている。
百万塔は、神護景雲4年(770)に完成し、東大寺・法隆寺等の10ヶ寺に10万基づつ安置されたといわれるが、その内の三重小塔の1基で塔心部に「自心印陀羅尼」を納めている。

?版木とは?

印刷するために文字や絵図などを彫り付けた板。
中国では「上梓」などと称するから、梓の木を使用したものであろう。
わが国では、主としてよく乾燥された桜材を用いる。特に山桜の自然木は、彫りやすく粘りがあり、版木調製には最良であった。
一枚の板の両面を用いることが多い。一旦彫りあげた版木は反りを防ぐために、両端に「端食(はしばみ)」と称する副え木をつけて保存する。
保存中に虫損の害に遭い易いが、虫は版木文字の墨がついている部分は食わず、内部での墨の水分を吸収している部分を食うため、内側ががらんどうになっていることが多く使用に耐えなくなる。

?整版とは?

活字版に対していう。木版印刷の最も普通の方法。版木に逆に印刷面を彫刻し、その上に墨を塗り、料紙を置いて、馬簾(ばれん)でこすり、印刷した本をいう。

眞歇和尚拈古(しんけつおしょうねんこ)【版木】/
眞歇和尚拈古(しんけつおしょうねんこ)【整版】

清了眞歇(せいりょうしんけつ1088-1151)撰 / 安永9(1772)刊

眞歇は左綿安昌(四川省)の人。曹洞宗。注解であるが宗乗の古則公案を拈提したもので、言句の解釈的説明とは異なる。
(むくじょうこうきょうじしんいんだらに)神護景雲4(770)頃刊百万塔陀羅尼と通称されるもので、「無垢浄光大陀羅尼経」に説かれる6種の陀羅尼のうち、根本・宗輪・自心印・六度の4種の陀羅尼を印刷し、そのいずれかの1種を胡粉を塗った木製の小塔、百万基に納めたもの。陀羅尼は、字面が縦5cm位、横50cm位(陀羅尼の種類により不同)で、根本40行・相輪23行・自心印31行・六度14行で印刷され、刊年の明らかな現存印刷物としては、世界最古のものといわれている。百万塔は、神護景雲4年(770)に完成し、東大寺・法隆寺等の10ヶ寺に10万基づつ安置されたといわれるが、その内の三重小塔の1基で塔心部に「自心印陀羅尼」を納めている。印刷するために文字や絵図などを彫り付けた板。中国では「上梓」などと称するから、梓の木を使用したものであろう。わが国では、主としてよく乾燥された桜材を用いる。特に山桜の自然木は、彫りやすく粘りがあり、版木調製には最良であった。一枚の板の両面を用いることが多い。一旦彫りあげた版木は反りを防ぐために、両端に「端食(はしばみ)」と称する副え木をつけて保存する。保存中に虫損の害に遭い易いが、虫は版木文字の墨がついている部分は食わず、内部での墨の水分を吸収している部分を食うため、内側ががらんどうになっていることが多く使用に耐えなくなる。活字版に対していう。木版印刷の最も普通の方法。版木に逆に印刷面を彫刻し、その上に墨を塗り、料紙を置いて、馬簾(ばれん)でこすり、印刷した本をいう。清了眞歇(せいりょうしんけつ1088-1151)撰 安永9(1772)刊眞歇は左綿安昌(四川省)の人。曹洞宗。注解であるが宗乗の古則公案を拈提したもので、言句の解釈的説明とは異なる。神護景雲4(770)頃刊百万塔陀羅尼と通称されるもので、「無垢浄光大陀羅尼経」に説かれる6種の陀羅尼のうち、根本・宗輪・自心印・六度の4種の陀羅尼を印刷し、そのいずれかの1種を胡粉を塗った木製の小塔、百万基に納めたもの。陀羅尼は、字面が縦5cm位、横50cm位(陀羅尼の種類により不同)で、根本40行・相輪23行・自心印31行・六度14行で印刷され、刊年の明らかな現存印刷物としては、世界最古のものといわれている。百万塔は、神護景雲4年(770)に完成し、東大寺・法隆寺等の10ヶ寺に10万基づつ安置されたといわれるが、その内の三重小塔の1基で塔心部に「自心印陀羅尼」を納めている。印刷するために文字や絵図などを彫り付けた板。中国では「上梓」などと称するから、梓の木を使用したものであろう。わが国では、主としてよく乾燥された桜材を用いる。特に山桜の自然木は、彫りやすく粘りがあり、版木調製には最良であった。一枚の板の両面を用いることが多い。一旦彫りあげた版木は反りを防ぐために、両端に「端食(はしばみ)」と称する副え木をつけて保存する。保存中に虫損の害に遭い易いが、虫は版木文字の墨がついている部分は食わず、内部での墨の水分を吸収している部分を食うため、内側ががらんどうになっていることが多く使用に耐えなくなる。活字版に対していう。木版印刷の最も普通の方法。版木に逆に印刷面を彫刻し、その上に墨を塗り、料紙を置いて、馬簾(ばれん)でこすり、印刷した本をいう。清了眞歇(せいりょうしんけつ1088-1151)撰 安永9(1772)刊眞歇は左綿安昌(四川省)の人。曹洞宗。注解であるが宗乗の古則公案を拈提したもので、言句の解釈的説明とは異なる。(むくじょうこうきょうじしんいんだらに)神護景雲4(770)頃刊百万塔陀羅尼と通称されるもので、「無垢浄光大陀羅尼経」に説かれる6種の陀羅尼のうち、根本・宗輪・自心印・六度の4種の陀羅尼を印刷し、そのいずれかの1種を胡粉を塗った木製の小塔、百万基に納めたもの。陀羅尼は、字面が縦5cm位、横50cm位(陀羅尼の種類により不同)で、根本40行・相輪23行・自心印31行・六度14行で印刷され、刊年の明らかな現存印刷物としては、世界最古のものといわれている。百万塔は、神護景雲4年(770)に完成し、東大寺・法隆寺等の10ヶ寺に10万基づつ安置されたといわれるが、その内の三重小塔の1基で塔心部に「自心印陀羅尼」を納めている。印刷するために文字や絵図などを彫り付けた板。中国では「上梓」などと称するから、梓の木を使用したものであろう。わが国では、主としてよく乾燥された桜材を用いる。特に山桜の自然木は、彫りやすく粘りがあり、版木調製には最良であった。一枚の板の両面を用いることが多い。一旦彫りあげた版木は反りを防ぐために、両端に「端食(はしばみ)」と称する副え木をつけて保存する。保存中に虫損の害に遭い易いが、虫は版木文字の墨がついている部分は食わず、内部での墨の水分を吸収している部分を食うため、内側ががらんどうになっていることが多く使用に耐えなくなる。活字版に対していう。木版印刷の最も普通の方法。版木に逆に印刷面を彫刻し、その上に墨を塗り、料紙を置いて、馬簾(ばれん)でこすり、印刷した本をいう。清了眞歇(せいりょうしんけつ1088-1151)撰 安永9(1772)刊眞歇は左綿安昌(四川省)の人。曹洞宗。注解であるが宗乗の古則公案を拈提したもので、言句の解釈的説明とは異なる。

?版木とは?

印刷するために文字や絵図などを彫り付けた板。
中国では「上梓」などと称するから、梓の木を使用したものであろう。
わが国では、主としてよく乾燥された桜材を用いる。特に山桜の自然木は、彫りやすく粘りがあり、版木調製には最良であった。
一枚の板の両面を用いることが多い。一旦彫りあげた版木は反りを防ぐために、両端に「端食(はしばみ)」と称する副え木をつけて保存する。
保存中に虫損の害に遭い易いが、虫は版木文字の墨がついている部分は食わず、内部での墨の水分を吸収している部分を食うため、内側ががらんどうになっていることが多く使用に耐えなくなる。

?整版とは?

活字版に対していう。木版印刷の最も普通の方法。版木に逆に印刷面を彫刻し、その上に墨を塗り、料紙を置いて、馬簾(ばれん)でこすり、印刷した本をいう。

?整版の方法?
  1. 原稿が作成される。
  2. 版下を作成する。
  3. 版下を板木に裏向けに貼り付ける。
  4. 版下が貼り着き乾燥すると、手の平でこすりながら、紙背の繊維を薄くはぎ取り、麻油を塗って文字を鮮明にする。
  5. 彫刻にかかる。
  6. 彫りあがったら丁寧に彫刻面の刷毛払いをする。
  7. 版面に墨を塗り、料紙を置いて馬簾でこすって刷る。
  8. 校正をする。「入木」や「埋木」により訂正をする。
  9. 書物の場合は製本所(書物仕立屋)で印刷製本される。
正法眼蔵却退一字参(しょうぼうげんぞうきゃくたいいちじさん)【版木】

「正法眼蔵」を漢文化し注釈を加えたもの。各巻頭に一転語を附し「参」といい「却退一字」とある。
明和7年(1765)龍ケ崎山王院・秋田雲仙寺・土浦東光寺・秩父光明寺で執筆、文化9年(1812)牛込保善寺俊昶により板(版)行された。
明治の混乱期に薪にされる直前、霊鴻・琢宗の二師が買い取り、不足13枚を曹洞宗州務院で補刻した。
本学が曹洞宗大学林と称した頃、この版木で手摺り教科書を作って学習したもの。

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)【整版】

永平道元(どうげん1200-1253)撰 / 額装

本学元教授水原一先生の印刷作製による。昭和63年頃。

展示室Aハイケース2<日本に影響を与えた中国・朝鮮の出版物-宋版・元版・明版・朝鮮版>
?宋版とは?

中国宋代に刊行された版本

法苑珠林(ほうおんじゅりん)→図書館禅籍善本図録155

(唐)道世(どうせい)撰 / 元豊3(1080)刊
巻101帖 / 折本 / 宋版 / 東禅寺開版

一切経の内容索引で却量編、三界編以下伝記編にいたる100篇に分け各編に部項を設け細別している。部項ごとに述意部を置いて概説的説明をつけ、出典を明記する。道宣の『大唐内典録』などとともに中国仏教資料として重要な書である。黄洲府(湖北省)にある東禅寺の開版である。東漸寺、蓮華寺とも呼ばれ、五祖弘忍の開法説法の地であり、六租慧能に衣法を伝えた寺である。また、東禅寺版大蔵経が開版されている。なかでも世間から需要の多い本書『法苑珠林』や『景徳伝燈録』などから出版を開始したとみられる。本学所蔵は、巻10「千仏の3」1帖のみである。

坐禅三昧法門経(ざぜんざんまいほうもんきょう)→図書館禅籍善本図録198

(姚秦)鳩摩羅什(くまらじゅう344-413)訳
東禅寺開版 / 崇寧元(1102)刊 / 2巻2帖 / 折本

鳩摩羅什は羅什三蔵と称される。401年インドより長安に渡来し、経典翻訳で活躍する。
坐禅観法に関する諸説を網羅し整然とした組織を持ち、禅経中第一に推されるべき書。

?元版とは?

中国元代に刊行された版本

宗鏡録(すぎょうろく)→図書館禅籍善本図録122

(宋)永明延寿(904-975) 慧元(1037-1091)重校
(元)至元24以降(1287) / 興正万寿寺刊
巻42・46・50 / 折本3帖

大乗教の経論、インド・中国の聖賢の著書、禅僧の語録、法相、三論、華厳、天台を折衷し、禅に融合させたもの。
全100巻を標宗章・問答章・引証章の三章に分けている。
本学は巻42・46・50問答章の項、三帖のみの所蔵である。他に高麗版(戊申歳成立)が光武10年(1906)分司大蔵都監より100巻21冊にて刊行されていて、本学にも所蔵がある。

碧巌録(へきがんろく)→図書館禅籍善本図録147

雪竇重顕(せっちょうじゅうけん980-1052)頌古
圜悟克勤(えんごこくごん1063-1135)評唱・著語
〔元〕刊 / 10巻4冊
別書名:仏果圜悟禅師碧巌録、碧巌集

雪竇重顕が『景徳伝燈録』を中心に古則100則を選んでこれに頌古を作り「雪竇頌古」と称し、のちに圜悟克勤がこれに評唱を付したものを『碧巌録』と名づけた。古来より宗門第一書として重要視されるが、成立の過程には問題が多く、圜悟の弟子大慧宗杲は学人を惑わすものとして焼却したという。現存するものは大徳4年蜀(四川省)の張明遠が『宗門第一書』と冠して刊行したもので、則の順序は「頌古百則」とは異なる。わが国の五山版等もすべて張明遠本の再刻である。本学には他に五山版があり、無刊記のものと、扉に手書きで「山城州西京妙心禅寺内正眼菴新刊」とあるもの2点が所蔵されている。

?明版とは?

中国明代に刊行された版本

明版大蔵経(みんぱんだいぞうきょう)→図書館禅籍善本図録1

本蔵 万暦末(1573-1620)刊
1,444冊 続蔵 康煕5(1666)刊 651冊
又続蔵 康煕15(1676)刊 401冊 2,496冊

『大蔵経』は仏教の経律論の三蔵を網羅する1大叢書であり、宋代以後国家的事業として度々開版された。
明代の開版は、太祖の時に南京の南蔵、成祖の時に北京の北蔵、ついで武林蔵、嘉興蔵と4回なされたが、この嘉興蔵が一般に明版といわれ、万暦版、楞厳寺版ともいわれている。
方冊型で見易いところから広く用いられ、鉄眼が開版した黄檗版もこれを定本としている。
本書もこの嘉興蔵すなわち楞厳寺版で、密蔵道開等の発願により、万暦の末(1573-1620)、嘉興府楞厳寺で開版されたものである。
版式は1紙20行20字詰めで、末尾に北蔵に欠く『密雲禅師語録』『続伝燈録』『古尊宿語録』『禅宗頌古聯珠通集』『仏祖統記』の五部を加えている。
その後、清の康煕5年(1666)には、本蔵の対補として続蔵経、後さらに又続蔵経が印雕されたが、特にこの続蔵、又続蔵には他蔵中にない多くの禅宗語録を包合しており、その点で重視されている。

?朝鮮本とは?

朝鮮半島における版本および鈔本を朝鮮本という。刊本を朝鮮版ともいう。朝鮮本は中国や日本に比べて、趣味、娯楽、実用等の書が極小で、子供用の絵本はなく、挿絵も少ない。朝鮮本には宋・元版の系統をひくものが多い。日本には『高麗版大蔵経』豊臣秀吉将来、江戸期宗藩収集本、明治以降収集本等、多量の善本がある。朝鮮本には和刻本も多く、朝鮮の影響で古活字版がおこるなど、朝鮮から受けた影響は大きい。朝鮮本は一般に大型で、模様押し黄表紙に朱太糸で五針眼訂法に綴じる。

倭語類解(わごるいかい)

朝鮮刊

韓国人による日本語との対訳辞書。巻末に讐整官・書写官の名が記されているが、著者年代ともに不詳。朝鮮の使者が始めて日光廟に詣でた寛永13(1636)年より後の作と思われる。日本では本学のみに所蔵する。濯足文庫蔵本。濯足文庫は本学元教授金沢庄三郎先生の蔵書で、特に国語学、言語学の重要文献が多い。

展示室Aローケース1<五山版>
大光明蔵(だいこうみょうぞう)→図書館禅籍善本図録136

(宋)橘洲宝曇(きっしゅうほうどん1129-1197)編
〔南北朝初期〕刊 / 3巻3冊
五山版初印本
旧蔵:積翠軒文庫、小汀文庫

詳しくは『伝燈大光明蔵』という。『景徳伝燈録』等から伝灯諸祖の機縁を招出して、評語を加えたもの。
光明蔵とは、自己の本心仏性は無明を破り、真如の光を輝かす大智慧光明を収蔵するところであるという。
本書は文字は小型で版式が整い、南北朝ごく初期の開版と推定される。
他に大東急文庫、成簣堂文庫などの蔵本が見られる。

達磨三論(だるまさんろん)→図書館禅籍善本図録137

伝(梁)菩提達磨(ぼだいだるま)撰
至徳4(1387)臨川三会院刊
別書名:初祖三論 / 旧蔵:小汀文庫

達磨大師血脈論・達磨大師悟性論・達磨大師破相論の三論より成る。
鎌倉末期に覆刻された『小室六門集』と同類の書でその後をうけて刊行されたと思われる。
本学所蔵には本書の他に三井家旧蔵のものが2本ある。伝本が比較的少なく、他に慶応義塾大学図書館蔵本がある。

古林和尚偈頌拾遺(くりんおしょうげじゅしゅうい)→図書館禅籍善本図録104

(元)古林清茂(くりんせいむ1262-1329)撰
椿庭海寿(ちんていかいじゅ1318-1401)編

南北朝 貞和元(1354)序刊 / 2巻1冊

古林清茂は元代を代表する中国禅僧。横川如?の法嗣でもある。
鎌倉末期に入元した臨済・曹洞の禅僧で清茂に学んだ人は多く、その著作物を日本に持ち帰り、古林清茂語録に洩れた偈頌を椿庭海寿が編集刊行したものである。
花園天皇、春屋妙葩(しゅんおくみょうは、智覚普明国師)らの多くの助縁を得て開版している。
文字はやや大型で版式字体には独特の風情がある。他に東洋文庫など数ヶ所にしかない稀少価値の高い南北朝刊行の五山版である。
「古林和尚碑」の後半部と建仁寺の雪村友梅撰の「利古林和尚拾遺頌募縁疏」が欠落している。

横川和尚語録(わんせんおしょうごろく)

横川如?(1222-1289)撰 / 本光等編
〔南北朝〕覆宋刊 / 2巻1冊

横川如?は臨済宗虎丘派、永嘉(浙江省)の人。
至正19年(1359)刊。横川如?の語録で巻首に至正8年(1348)の自序があり、上巻に瑞安府(浙江省)雁蕩山霊巌寺、雁山能仁寺、明州(浙江省)阿育王広利寺の語録。
下巻には室中挙古、拈古、頌古、讃、偈等を収めている。
本書は南北朝頃に印行された覆宋刊の五山版である。覆宋版とは、宋版をそっくり覆刻した本のことである。元禄17年(1704)に3巻本して刊行された木活本があり、本学にも所蔵がある。

展示室Aローケース2 <古活字版>
?古活字版とは?

天正・文禄年間から寛永年間(正保・慶安までを含む)に亘る約50年間に出版された活字版の総称。
近世後期に再び行われる近世木活字と区別して、特に古活字と称する。
活字版とは、一字ずつ独立した文字を彫刻し、これを配列組み合わせて原版にし、印刷する方法である。
文字通りに一字一字が活きているという意味である。
わが国の活字印刷は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して、活字印刷器具を持ち帰ってから起こったもので、仏書・漢籍はもとより、従来ほとんど出版を見なかった国書の開版が行われ、印刷・出版文化は画期的に進展した。
また、西洋の印刷術も伝来して、九州で耶蘇会士によって切支丹版と称する出版が行なわれた。
当時の活字はほとんどが木製で、漢字は1字1個を原則とするが、仮名活字(平仮名・片仮名)は2字ないし5字の連続活字を交えて、仮名交じりの表記を生かした印刷を工夫している。
金属製の活字は例外で、徳川家康の駿河版、後水尾天皇の元和勅版の2件だけが知られているにとどまる。

?高台寺版・妙心寺版?

禅宗の寺院における活字印行の賑わいがない間にあって、活字開版が印行された。
東山の高台寺にて慶長18年に活字開版をしている。
本学に所蔵がある禅林の語録を収めた『禅林抜類聚』(元)善俊、智鏡、道泰等編20巻4冊がある。高台寺版である。
妙心寺では、室町末期まで開版事業は見られず、室町末期に『碧巌録』を出版し、古活字版の時期には慶長から元和にかけて数種の印行がある。慶長年間の活字印行は行書体の活字を作らせた。
『雲門匡真禅師広録』と『臨済録』とを、妙心寺住侶の宗鉄が出版しているのは、他に例がない。

雲門匡真禅師廣録(うんもんきょうしんぜんじこうろく)→図書館禅籍善本図録100

(唐)雲門文偃(うんもんぶんえん864-949)撰
(宋)守堅編 慶長18(1613)

宗鉄重刊 / 3巻3冊 / 妙心寺版

文偃は雲門宗、嘉興(浙江省)の人。志澄律師に、四文律等を学ぶ。匡真大師の称号を受ける。
(宋)煕寧9(1076)序刊。上巻に対機、十二時歌、偈頌を、中巻に室中語要、垂示代語を下巻に勘弁、遊方遺録、遺表、遺誡、行録、請疏を収録している。
福州鼓山の円覚宗演が校勘し、蘇?の序を得て刊行する。巻首序は整版。
本書は、他の真名活字印本が楷書であるのに対して、行書体で肉太の活字を用いている。
他に類がない珍しいものである。

山谷詩集注(さんこくししゅうちゅう)→図書館禅籍善本図録114

(宋)黄庭堅(こうていけん 1045-1105)撰
(南宋)任淵(じんえん)注
〔慶長・元和(1596-1624)〕刊 /
20巻11冊 / 8行大字本

黄庭堅は、蘇軾とともに宋代の詩人として筆頭に位し、宋代四大書家の一人でもある。
号は山谷道人。黄竜祖心(1025-1100)の法を嗣いだ居士として有名である。
『山谷詩集』は元豊元年(1078)より崇寧4年(1105)までの詩795首を収める。
日本への伝来は南北朝時代で、宋刊本を覆刻した任淵撰『山谷黄先生大全詩注』(20巻)と呼ばれる五山版がある。
五山の僧に読まれ広く禅林に流行していった。
黄庭堅が禅思想に強い関心を持ち、また老荘思想によって大自然との融合への願望や、自然の個々の事象の存在の意味を詩にうたったことによる。
本書は古活字版として、慶長・元和間に刊行された8行大字本である。本学には元和・寛永(1615-1644)刊の古活字版の所蔵がある。

源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)

〔慶長頃〕5-10、13-20巻 / 7冊

『平家物語』の広本系の一種であり、近世以来独立した別個の軍記として流布した。
『平家物語』は一般的には語り本を指すのであるが、読み本として、語り本とは別の立場から編纂されたものである。
この『源平盛衰記』は平家物語中、一番大部に増補されたものである。片仮名漢字交じり。沼沢文庫蔵本。

展示室Aローケース3・4 <五山版と古活字版と整版>
?古活字版と整版とは?

わが国の印刷方法の主流は整版印刷で、室町末期まで、仏典を中心に行われてきた。
五山版も整版印刷である。その大勢のなかにありながら天正(1573-91)の終わりから文禄(1592-95)、慶長(1596-1614)にかけての頃より、寛永(1624-43)の前半までの半世紀は、活字による印刷が整版印刷と併存した珍しい時期であった。
この江戸時代初期の活字印刷は江戸時代中期頃から新しく起こる活字印刷を近世活字版というのに対して、古活字版という。
寛永の初め頃からは、ふたたび伝統的な整版印刷が盛んになり、以後、明治期を迎えるまで、江戸時代を通じて一般的な印刷方法となった。

?活字版と整版の区別?
  1. 活字版では匡郭(本文の回りを囲むしきり)の四隅に隙間が生じる。
  2. 刷面の文字の墨付きに濃淡が出る。
  3. 活字であるから文字は一字づつ切れていて、上下交差したり、続くことがない。ただし2字以上の連続活字は別である。
  4. 文字に誤植、転倒、歪みが見られる。
  5. 文字の大きさは不揃いである。また、一行の文字に中心線が通らず、躍動感がない。
祖庭事苑(そていじえん)【五山版】→図書館禅籍善本図録130

(宋)睦庵善卿(ぼくあんぜんきょう 生没年不詳)編
〔南北朝初期〕覆宋刊 / 8巻2冊

旧蔵:積翠軒文庫

善卿は東越(福建省)の人。
祖師の語録から、仏教・世界の故事・成語・名数・人名・俚語・方語等二千数百項を挙げ、その本拠地を記し注解を加えたもので、禅門最初の事典。
本書は南禅寺版に対しての別版であり、南北朝の刊行と認められる覆宋刊の端正な雕版のひとつと思われる。
巻首に四明法英の序と目録、巻末に紹興24(1154)重刊の原刊語、師鑑の跋、紫雲の後序がある。
また、永正2(1505)妙心寺31世宗{屎ワ天の墨書がある。

祖庭事苑(そていじえん)【古活字版】→図書館禅籍善本図録131

(宋)睦庵善卿(ぼくあんぜんきょう)撰
〔慶長-寛永(1596-1644)〕中村長兵衛刊 / 8巻2冊

祖庭事苑(そていじえん)【整版】

(宋)睦庵善卿(ぼくあんぜんきょう)撰
正保4(1647) 田原仁左衛門刊 / 8巻4冊

訓点付 / 蔵書印記:筒川方外之記

仏果圜悟眞覚禅師心要(ぶっかえんごしんがくぜんじしんよう)【五山版】

雪竇重顕(せっちょうじゅうけん980-1052)
頌古 圜悟克勤(1063-1135)評唱
子文編暦應4(1341) 臨川寺刊 / 2巻2冊
五山版初印本
別書名:仏果圜悟禅師心要、圜悟心要旧蔵:西荘文庫(小津桂窓)

圜悟克勤が当時の士大夫・居士・学人のために宗意を示したもの。東洋文庫には宋版の重刻本があり、宋版と五山版や現行本にはかなりの相違があり、変化のあとが窺われる。鎌倉末期刊と相似の無刊記本と版木が一部共通で、少なくとも半ば先行の版木を利用した補刻本である。他に国立国会図書館、成簣堂文庫等の諸本がある。「花園瑞雲公用」の識語あり。

仏果圜悟禅師心要(ぶっかえんごぜんじしんよう)【古活字版】→図書館禅籍善本図録144

雪竇重顕(せっちょうじゅうけん980-1052)頌古
圜悟克勤(1063-1135)評唱 子文編

寛永3(1626) 中野市衛門尉刊 / 上巻1冊

仏果圜悟禅師心要(ぶっかえんごぜんじしんよう)【整版】

雪竇重顕(せっちょうじゅうけん980-1052)頌古
圜悟克勤(1063-1135)評唱 子文編

〔江戸年間〕小川源兵衛刊 / 臨川寺暦應4年刊の後刷

展示室Aローケース5 <写本>
?写本とは?

手書きした書籍で、鈔本(しょうほん)、書き本ともいい、印刷された版本・刊本・印本と対応する呼び方である。
その成立の事情によって自筆原本、自筆本、稿本(手稿本)、草案本、清書本などと区別する。
古写本といわれるものは、上限は聖徳太子以来、室町末期までの写本を古写本とし、それに続く慶長・元和・寛永年間の写本は古写本に準じて扱う。

従容録(しょうようろく)→図書館禅籍善本図録118

(宋)宏智正覚(わんししょうがく1091-1157)頌古
万松行秀(ばんしょうぎょうしゅう1126-1246)評唱
〔室町後期〕写 古写本
別書名:従容庵録、万松老人評天童覚和尚従容庵録

『碧巌録』とともに禅林に並び行われ、その頌古は風格が高く、宏智の技量古今越格と称されている。
『碧巌録』が看話の臨済宗で用いられるのに対し、曹洞宗の宗風を挙揚したものとして広く用いられている。
室町後期頃の古写本であろう。

伊勢物語(いせものがたり)

〔室町時代〕写 伝三好長慶筆 古写本
作者、成立年未詳

全章段125段の長短さまざまな物語から成っている。各段の章段は「昔男ありけり」の形が多い。
三好長慶(みよしながよし?-1549)筆あるいは里村玄陳ともいえる。
長慶は戦国の武将で文筆をたしなんだ。玄陳は里村紹巴(さとむらじょうは)の孫で近世初期の連歌師。

平家物語(へいけものがたり)

〔江戸初期頃〕写
葉子十行本
平仮名書き

本書は12巻の後に灌頂の巻きを付す、いわゆる平曲一方流の台本である。
特徴は巻第10末に中世の中期に完成した覚一本が欠いている「宗論」、巻第十一には江戸初期に成立した流布本ではすでに欠けている「剣」と「鏡」の両巻がある。
そして、詞章においては覚一検校没後約100年、最も平曲の盛んであった室町時代のものを伝えていて、特に注目されている。
これと同一系統の本は京都府立図書館にある。
また、同一系統であるが1丁の行数が異なり、漢字が多く使用されている本が米沢図書館にある。
本学元教授冨倉徳次郎編『日本古典全書平家物語』朝日新聞社は米沢本を定本としている。沼澤文庫蔵本。

常設展示室B1 <図書館蔵書でふりかえる禅の源流>
禅門宝訓集(ぜんもんほうくんしゅう)

(明)浄善(じょうぜん)重集 / 寛永8(1631) 四條時心堂刊 / 2巻2冊
別書名:禅林宝訓

(明)洪武11年(1378)開版。大慧が古徳先徳の語録、伝記中より学人の模範となるべき事例100余編を編集後に浄善が増補編集し、300余編としたもの。古来より広く禅林の間にて行なわれた。本書は寛永8年(1631)に刊行されたもの。

景徳伝燈録(けいとくでんとうろく)

(宋)道原(どうげん)編
寛永17(1640) 田原仁左衛門刊 / 30巻20冊

景徳元年(1004)成立。元豊3年(1080)開版。
過去七仏より東土六祖を経て法眼文益の法嗣に至る、1701人の機語を収録する。
本書は寛永17年に刊行されたものである。

常設展示室B2 <図書館蔵書でふりかえる道元の生涯>
永平道元禅師行状図会(えいへいどうげんぜんじぎょうじょうずえ)→図書館禅籍善本図録30

瑞岡珍牛(1743-1822)編
法橋中和画 / 西村翠峰着色 / 文化6(1809)序 法華寺刊

2帖 / 折本

道元の伝記の基礎的な資料としての『建撕記』(けんぜいき 1巻 建撕著)に基づき、平仮名で道元の行状を綴り、図絵を挿入したもの。

高祖道元禅師行跡図(こうそどうげんぜんじぎょうせきず)→図書館禅籍善本図録31

江戸後期 永平寺宝蔵刊 / 2軸 / 掛軸

道元の生涯の事績を2巻仕立てで描いたもの。右側の巻子右上から左に向って物語が進む。

常設展示室B3 <道元の書と正法眼蔵>
趙州四門(じょうしゅうしもん)→図書館禅籍善本図録3

道元〔筆〕〔嘉禎元年(1235)頃〕/ 掛軸 / 1軸

趙州と一僧との四門についての問答。「僧問趙州如何是趙州、州云、東門西門南門北門」(『碧巌録』9)この公案は、趙州の面目についての質問に、趙州城の東西南北の四門を借りて、趙州には、発心・修行・菩提・涅槃の四門があって、つねに道環して断絶がない、朝から晩まで四門の開放で、融通無礙であることを示したもの。

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 本山版→図書館禅籍善本図録22

永平道元(どうげん1200-1253)撰
寛政8-文化13(1796-1816) 永平寺刊 / 95巻21冊

月潭全龍(ぜんりゅう?-1865)手沢本

寛喜3年(1231)8月撰述の「弁道話」から建長5年(1253)の「八大人覚」に至る23年間の道元の説示を集めた和文(漢字・変体仮名・平仮名)の著述で、日本曹洞宗の根本宗典。『正法眼蔵』の開版は、卍山道白が貞享元年に「安居」を上梓したことに始まったが、一般には秘書と見る観念が衰えず、享保7年(1722)に幕府から「正法眼蔵開版禁止令」が出されたために全巻の開版は遅れた。寛政7年(1795)に玄透即中が永平寺50世に普住し、その7年後に迫った道元550回大遠忌の記念事業として開版を発願。同年12月に開版の允許が出された。完成は文化13年(1816)。仮名は片仮名が用いられ、道元の撰述の期日および弧雲弉による謄写の期日に従って編集されている。

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)→図書館禅籍善本図録15

永平道元(1200-1253)撰
明和年間(1764-1772)写
桑名居士筆 / 96巻11冊
序文:明和4(1767) 面山瑞芳(めんざんずいほう1683-1769)筆

瑞芳は、仏教祖録を提唱して祖風の宣揚に努め、『面山広禄』のほか、聞解、頌古、清規、史書、紀行等50余種の著述を残している。序文は瑞芳の自筆である。

常設展示室B4 <図書館蔵書でふりかえる禅僧列伝>
元亨釈書(げんこうしゃくしょ)→図書館禅籍善本図録176

虎関師練(こかんしれん1278-1346)撰
慶長10(1605) / 下村正蔵刊 / 30巻10冊 / 古活字版

虎関師練は五山の学僧として名高く、儒学、文学の面でも活躍した臨済宗聖一派の人。
元亨2年(1322)に成立。貞和3年(1364)~永和3年(1377)刊。明徳2年(1391)に再刻している。
仏教伝来以後7百年にわたる日本の高僧名僧の伝記集成。讃評、論を加え、年次を追って仏教の事跡を述べている。
菩提達磨を伝智の冒頭に置き日本への渡来説を強調し、また東福寺円爾の伝記に巻7の全巻を費やしている点などに、虎関師練の禅宗中心の立場が窺いしれる。
本書は慶長10年(1605)刊の古活字版である。他に元和3年(1617)古活字版、寛永元年(1614)の整版などがある。
注釈書に『元亨釈書微考』(30巻)延宝3(1675)、『元亨釈書便蒙』(30巻)等がある。

延宝伝灯録(えんぽうでんとうろく)

卍元師蛮(まんげんしばん 1626-1710)編
延宝6(1678)序 宝永3(1706)刊

40巻27冊

師蛮は日本に禅が伝わって以来500年あまり、多くの古徳を輩出したが、紀伝や機縁語がないのは遺憾であると編纂を発願して諸方を歴訪し資料を蒐集し、本書を完成した。日本における禅宗高僧・居士、禅宗に帰依した皇族や他宗の諸祖、およそ1千人の伝記等を収録。『景徳伝灯録』に習い、完成時の年号を冠して『延宝伝灯録』とした。本文の巻頭には達磨大師の伝を掲げている。

日域洞上初祖伝(にちいきとうじょうしょそでん)

湛元自澄(たんげんじちょう?-1699)撰
元禄6(1693)序 元禄7(1694)刊 / 2巻2冊

自澄は長崎県皓台寺6世。道元以来400年間に排出した日本の曹洞宗の僧侶70人の伝記を収録したもの。
日域は日本のこと。洞上は曹洞宗のこと。日本の曹洞宗に関するまとまった資料としては最古のものである。

常設展示室B5 <図書館蔵書でふりかえる一休>
一休水鏡(いっきゅうみずかがみ)

正保4(1647)

仏法をわかりやすくするために、道歌を引き、問答形式で解説している。禅の教えを簡明に説く。

狂雲集(きょううんしゅう)

一休宗純(1394-1481)著 寛永19(1642)
河南四郎右衛門刊 2巻2冊

禅宗の古則公案をふまえた頌・偈・賛の集。禅的色彩が強く、一休の思想を直感的に窺うことができる。
一休は自らを「狂雲」と号したが、この集のなかには風狂の精神が横溢している。

2階 <江戸・明治時代の出版と文化>

企画展示室1 <絵本>
?絵本とは?

絵を主体として作成された本。「奈良絵本」や「絵巻物」もまた一種の絵本である。

?奈良絵本とは?

室町末期から江戸前期にかけての絵入古写本。極彩色の豪華本。中世の絵巻物を基礎
成立したと考えられ、いわゆる御伽草子を中心に物語・謡曲などを内容とし、主として奈良絵と呼ばれる挿絵を持つ冊子本(巻物でなく、本の形をしたもの)である。

いはや(いわや)

上中下巻 / 3冊 / 作者不詳

継子いじめ型の恋愛物語。平安時代に成立した物語『いわや』は散在し、その姿の全体を窺いしることができないが、室町時代にその改作と思われる御伽草子『岩屋の草子』が作られた。
本作はその『岩屋の草子』の奈良絵本と考えられる。華麗な装丁の本である。

伊勢物語(いせものがたり)

2冊 / 作者 / 成立年未詳

全章段125段の長短さまざまな物語から成っている。各段の章段は、「昔、男ありけり」の形が多い。画家・詞ともに筆者不詳。
室町末~近世初期か。挿絵戯曲優雅の装飾本。

?絵巻物とは?

絵巻ともいう。絵解き本の一種で、絵を加えて物語の内容をわかりやすく描き、巻物(巻子)にしたものである。
多くは、物語性を持ち、画風はやまと絵。詞書(ことばがき)とそれに対応する絵が交互に置かれ、広げていくに従って物語が展開していく。
物語を時間的経過を絵画化したことが特徴である。
8、9世紀の中国の画巻の形式に学び、平安時代から鎌倉時代に黄金期を迎えた。
室町時代になると、絵も書も共に劣勢となり、形も小さめとなり、後には巻物の形から奈良絵本の冊子となった。

熊野御本地(くまのごほんち)

〔室町中期頃〕写 / 絵巻2軸

異国の神々が日本に渡来し、熊野三山の神々となる物語。
熊野権現の由来を描いた本地物である。
「神道集」に同内容の本地物語が載っているので、南北朝時代までに成立したと思われる。
御伽草子から説経に至る本地物文芸の中心的な存在であった。
本絵巻は類本多数の中でもは描法・彩色に古雅の趣深く、古態の点で梅沢本(熊野本地最古絵巻)に比肩し得ると思われる。
絵15図。

是害坊絵(ぜがいぼうえ)

絵巻1軸唐国の天狗是害坊が日本の仏法を妨げようと渡来したが、かえって法力敗れて痛めつけられる筋を絵のみで示す。
筆勢暢達、色彩調和し楽しい画巻。詞書なし。

?青本(あおほん)とは?

草双紙の一類。
江戸時代中期に、江戸の地で、女性や子供を対象とした絵本(赤本)が作られ、次いで内容がより知的になった黒本・青本が登場した。
名称は表紙の色により、青本とは、元の青または萌黄色(青みのある緑色)が退色して、わらいろ藁色と化したものをいう。
この後、士大夫たる男性の鑑賞にも堪える絵本、黄表紙が現われた。

鬼界嶋貝合(きかいがしまかいあわせ)

寛延2(1749)刊 / 青本 / 作者不詳

平家物語に材を取り、歌舞伎の要素も取り入れて、面白く作品化したもの。江戸の代表的な草紙屋(本屋)である、鱗形屋から出版されており、青色地紙」の外題僉(それぞれに表紙に貼り付けてある、題名と、内容を表す絵)が揃っていて、貴重である。絵師は不明だが、鳥居派の筆か。

企画展示室2 <浮世絵・古地図>
?浮世絵とは?

古風なやまと絵に対して、江戸時代の民衆の趣味と生活を主題として、描写した絵画をいう。
江戸初期に、岩佐又兵衛がその風を興し、次いで菱川師宣が出て、版画でその描法を確立し、「浮世絵版画」の基を開いた。
浮世絵版画はその後、多色刷が加わってから「錦絵」として大いに発達し、浮世絵の黄金時代を迎えた。
美人画、風景画、役者絵などがある。

木曾街道六十九次(きそかいどうろくじゅうきゅうつぎ)

歌川(一勇斎)国芳(うたがわくによし1797-1861)筆
〔71枚〕

国芳は初代豊国の門人であるが、北斎の影響もうける。武者絵や風景画にもすぐれ、美人画、役者絵にも力作が多い。
また、洋風画も研究し、領域も広く門弟も多い。木曾街道六十九次の揃物の古版画。
木曾街道の宿々にちなんだ見立絵、たとえば妻籠に「妻乞」あるいは「妻恋・夫恋」を掛け、そこから阿倍保名と狐葛の葉の故事を導き出しているように「葛の葉」を、落合に「条仙人」、守山に「達磨大師」のそばを食う図、といったように、故事・逸話を主題として、主に芝居関係の絵を描き、それぞれの宿の風景を左の上隅に簡単に描いたものである。

?古地図とは?

江戸時代には幕府による諸国国絵図、街道図、城下町図等、行政上の地図製作が盛んになった。
後期には蘭学の発達により、蘭学者による世界地図もみられる。
いっぽう商業の発達や庶民の旅行も盛んになり、日本図、道中図をはじめ名所絵図など様々な地図が浮世絵の木版技術を生かし刊行され民間でも地図が普及した。

大日本国図並東海道中仙道中絵図(だいにほんこくずならびにとうかいどうなかせんどうちゅうえず)

絵図屋庄八 / 文政6(1823) / 61cm×67cm

江戸時代には参勤交代や商人、庶民の旅行が盛んで、日本国図、道中図が多く製作された。
地図は不正確だが、国郡、城下町、宿場町間の里程、名所など豊富な内容が記載される。
和船や中国船の描写も興味深い。

欄新訳地球全図(おらんだしんやくちきゅうぜんず)

橋本宗吉作 / 寛政8(1796)

浅野弥兵衛刊水戸藩の儒者、長久保赤水の校閲、大阪の医師、橋本宗吉による平射図法による「東西両半球図」の世界地図。
カリフォルニア、オーストラリアなど正確さに欠けているが、地図の周りに世界の地誌の解説が付記され、様々な情報を得ることができるので人気を博した。

越前吉田郡志比荘吉祥山永平禅寺全図(えちぜんよしだぐんしびのしょうきちじょうざんえいへいぜんじぜんず)

嘉永5(1852) 永平寺刊

嘉永5(1852)年は、道元禅師600回の大遠忌にあたる。
同時代に總持寺や大乗寺でも木版図が出版されている。
寺社境内図は、本来開基、造営の際に作成され宗教的シンボルとされたが、江戸時代に寺社参拝が大衆化し、物見遊山的要素も高まり、旅の案内、お土産などの名所絵図として木版が製作された。参拝客など人物が描かれるようになるのもこの頃からである。

企画展示室3 <仮名草子・浮世草子・俳書・名所図絵>
?仮名草子とは?

近世初期、慶長(1596-1615)から天和(1681-84)にかけて約80年間に作られた、小説を中心とする散文文芸の総称。
やさしい仮名文で書かれた庶民向けの小説である。恋愛物・教訓物・怪談物・名所図会・笑話物・翻訳物などに分けられる。

二人比丘尼(ににんびくに)

鈴木正三(1579-1635)著
寛永9年(1632)頃成立、万治3年(1660)以前刊 / 大本1巻1冊 / 仮名草子

本書は蘇東坡の作という『九相詩』(人の屍が土灰に帰するまでの九つの姿を描いたもの)
一休の『一休骸骨』『一休水鏡』などの影響を受けて、作者の仏説を具体化した作品。
あら筋は、戦死した夫の菩提を弔うために家を出た妻が、知り合った同じ境遇の女と暮らし始めるが、その女も亡くなる。
その死骸が腐乱し白骨化していく過程を目のあたりにした妻は、無常迅速の理を悟って尼となり、修行の末、往生をとげる、というものである。
江戸時代のベストセラーの一つ。
本書は刊年不詳ながら、絵の多さ、文章の古風さなどから最も早い時期の版と思われる。

?浮世草子とは?

西鶴の『好色一代男』(1682年刊)以後、安永(1772-81)頃に至るまで上方で行われた小説。
西鶴の諸作品とそれに追随する作品および八文字屋本をいう。
「浮世」とは現実社会の意味もあるが、狭義では「色の世界」の意味がある。
浮世草子すなわち好色小説が、後に当世小説に発展した。
なお、八文字屋本とは、元禄(1688-1704)頃から明和(1764-72)頃までの約80年間にわたって浮世草子の出版をした書店、八文字屋の出版物。

日本永代蔵(にほんえいたいぐら)

井原西鶴(いはらさいかく1642-1693)著
貞享5(1688)刊 / 大本6巻6冊

浮世草子西鶴町人物の代表作。「大福新長者教」と副題し、仮名草子『長者教』を意識して、すべて「銀の世の中」にあって、いかにして長者となるかを説く。
知恵・才覚で富に至る者、2代目の没落など、町人のさまざまな興亡盛衰談30篇を収める。

?俳書とは?

俳諧の書物。芭蕉以前のものを「古俳諧」という。

奥の細道

松尾芭蕉著 / 井筒屋刊

松尾芭蕉(1644-1694)は伊賀上野の人。
仕えていた藩主家の嫡男の死に遭い、遂に俳諧で身を立てることを決意。
上方で修行の後、江戸に出て俳道を究め、旅を通じて「不易流行」の理念を打ち立てた。
『奥の細道』は、元禄2年(1689)3月に江戸を発ち、奥州各地の名所を経て、同年9月に美濃大垣に至るまでの旅を、折々の発句とともに綴った紀行文である。
本書は刊記は無いが、元禄初版本(元禄15(1702)刊)と同じ版と思われる。枡形本。
沼澤文庫蔵本。

奥の細道

天保14(1843)刊 / 豆本

豆本とは、特小本のなかでも、さらに小型の本の総称。愛玩本。沼澤文庫蔵本。

白隠禅師施行歌(はくいんぜんじせぎょううた)

白隠慧鶴(はくいんえかく1686-1768)
天明4(1784) 1冊

白隠は江戸時代中期を代表する禅僧。臨済宗中興の祖。
本書は、庶民教化を目的とする教訓的な和讃の一つで、飢饉の際の貧者への施行を勧める七五調の句、全120句より成る。
現存諸本のうち、最古本であり、最もよく原形を留めているといえる。

良寛自筆歌幅

良寛筆 / 1軸

やまたづの
向ひのおか
に小牡鹿
たてり神無
の雨にぬれつつ立てり
沙門良寛

沢庵墨蹟(たくあんぼくせき)

沢庵宗彭(たくあんそうほう1604-1645)

臨済宗。但馬(兵庫県)の人。品川東海寺の初租。
著書に『不動智神妙録』がある。また沢庵の著書をまとめた『沢庵和尚全集』などがある。
『碧巌録』の碧巌四十二則(へきがんしじゅうにそく)の問答である。沢庵の落款あり。

江戸名所圖會(えどめいしょずえ)

松濤軒齋藤長秋編輯 / 長谷川雪旦書図 藤原県麻呂 斎藤月岑校正
天保5(1834)-7(1836)
須原屋伊八刊 / 7巻20冊

図絵を主体とした名所案内記で、元禄・享保頃に刊行された勝景図(折本)が始めで、その後、袋綴の名所図会の詳しいものが多数出版されるようになった。
本書は、名所図会のなかでもその内容と図絵がすぐれたものである。

企画展示室4 <明治時代>
たけくらべ原稿

樋口一葉(1872-1896)筆

1軸東京生まれ。日本で最初の職業作家を目指した女性。
一葉の『たけくらべ』の自筆原稿は2種類ある。明治28年(1895)1月から29年1月まで『文学界』に断続的に掲載された時の原稿と、29年4月『文芸倶楽部』に一括再掲された時の原稿である。
後者は現在山梨県立文学館で保管されているが、前者は各地に分散していて、行方不明のものもある。
この展示資料は、第10章末尾の1枚であるが、最近まで所在が分からず「幻の原稿」となっていた。
古書入札会に出品されて反響を呼び、縁あって本学図書館所蔵となったものである。
この原稿がみつかったことの『たけくらべ』研究上の資料的価値はきわめて高いが、書という観点からの美術的鑑賞価値も注目される。
なお、題字はこの原稿の所有者となった上田敏(『文学界』同人)の筆である。

たけくらべ

樋口一葉著 / 日本近代文学館 1968.12 真筆版 / 博文館大正7年の復刻

みだれ髪

与謝野晶子(1878-1942) / 明治34(1901)8月
東京新詩社 / 初版本

与謝野晶子は堺の人。結婚前の姓は鳳。与謝野鉄幹と激しい恋愛を経て結婚、第一歌集『みだれ髪』で文壇に衝撃的にデビューした。
以後『明星』派ロマン主義を代表する女性歌人として活躍する。
日本近代文学史における20世紀は、満22歳の与謝野晶子『みだれ髪』によって幕が開いたという見方もできる。
20世紀第1年目の明治34年(1901)8月に刊行された『みだれ髪』は、「やは肌」、「黒髪」、「乳ぶさ」といった当時としては大胆な用語を奔放に用いて官能を賛歌した399首の歌群は、刊行と同時に囂々たる反響を呼んだ。
著者名が「鳳晶子」となっているのは、この歌集が出た時はまだ鉄幹とは同棲の期間だったためである。
表紙画と挿絵は藤島武二。後年晶子は『みだれ髪』時代の歌を改作しているが、初版のままの方を高く評価する声が多い。

与謝野晶子自筆葉書

有賀精・キミ子宛
ペン書き自筆葉書(19-- 11月14日付け)

<初版本等>
森鴎外(もりおうがい1862-1942)

石見国(現島根県)津和野出身。東京大学医学部卒業後、長く陸軍軍医を務めた。
『舞姫』は鴎外の小説のなかで最も読まれている短編である。明治23(1890)年1月に『国民之友』に刊行されたが、本書は明治40(1907)2月に彩雲閣から刊行されたもので、メインはイーストレーキによる英訳『My Lady of the Dance』のほうである。
『即興詩人』は原作はアンデルセンが書いた、イタリアを舞台にした一人称形式の長編小説。全文文語体、鴎外の翻訳文学の分野における代表作である。
『雁』は、鴎外最後の現代小説。貧しさのゆえに高利貸しの妾となったお玉の東大生へのひそかな恋慕と挫折を抒情豊かに描いた作品である。

舞姫(まいひめ)

森林太郎著 / 彩雲閣 / 明治40(1907).2 / 初版

即興詩人(そっきょうしじん)

ハンス・ハンデルセン作 / 森林太郎訳
春陽堂 / 明治35(1902).9 / 初版

雁(がん)

森林太郎著 / 籾山書店 / 大正元(1915.5)初版

夏小袖(なつこそで)

尾崎紅葉(おざきこうよう1867-1903)
明治25(1892)9月 / 春陽堂

「硯友社」の代表作家。江戸生まれ。本書は明治25年(1892)9月、春陽堂から書き下ろしで出版された時、本文内題の署名が「森盈流」となっていた。
ひとつはこれがフランスの喜劇作家モリエールの翻案であることの暗示であり、もうひとつは作家名を隠した、「作家あて懸賞クイズ」という販売戦略をとっていたためである。作者が紅葉であることは、同年11月になって初めて公表され、12月刊行の第三版で「紅葉」作であることが明記され、紅葉の序文が付けられた。本書は12月刊行の第三版で、長く「幻の書」とされてきた貴重本である。
物語内容はモリエールの『守銭奴』の明治東京版という体裁で、吝嗇な高利貸・五郎右衛門の一家の欲と恋がからみあったコメディ。
戯曲仕立てになっているが、「章立てや場面転換からみてむしろ会話体小説」(亀井秀雄氏)という説もある。

島崎藤村(1872-1943)

『若菜集』『一葉舟』『夏草』『落梅集』『藤村詩集』初版本

島崎藤村は長野県馬籠村生まれ。19世紀末から20世紀初めの4年間で4冊の詩集を編んだあと、『散文』に移行していった。第一詩集『若菜集』は、明治30年(1897)8月、第二詩集『一葉舟』は、明治31年(1898)6月、第三詩集『夏草』は大部分が書き下ろしで同年12月、第四詩集『落梅集』は明治34年8月にそれぞれ刊行された。出版社はいずれも春陽堂である。明治37年9月にやはり春陽堂から刊行された『藤村詩集』、新しい詩集ではなく、『若菜集』から『落梅集』の4冊を、散文作品を合本したものである。今回はこの100年前の青年詩人藤村の詩集すべての初版版を展示した。国民的愛唱詩となってきた『初恋』は『若菜集』、「椰子の実」と「小諸なる古城のほとり」は『落梅集』の収録作品。カラオケの定番曲になっている「惜別の歌」も、『若菜集』所収の「高楼」を改作したものである。

<新聞>パネル紹介
萬朝報(よろずちょうほう)

明治25(1892)年11月1日に黒岩周六(涙香)により創刊された日刊新聞。
昭和15年(1940)10月1日、16,850号をもって『東京毎夕新聞』に吸収され廃刊となる。発行は朝報社のち萬朝報社。
発行当初は東京府内発行新聞としては、『東京毎日新聞』『都新聞』についで、第3位であったが、明治32年末に第1位に達している。
黒岩涙香の論説や翻訳小説そして編集・経営能力によるところが大きく、第三面には痛烈な社会記事を取り上げ「三面記事」の語を生む。
また、内村鑑三、幸徳秋水らも在社して、労働・社会運動に関心を示し、日露戦争に反対したことで知られている。
本学は『絵入自由新聞』が『萬朝報』に合併吸収された、明治26年6月7日より大正6年5月1日までを所蔵。合併後に社主として迎えられた、山本藤吉郎氏より大正14年に寄贈されたものである。
『萬朝報』復刻版が昭和58(1983)年に日本図書センターより刊行されていて、本学蔵書を使用している。
復刻版は明治25(1892)年11月1日の創刊号から大正9年12月31日までの9,906号(156巻)を収録。

■お問い合わせ先:
駒澤大学禅文化歴史博物館事務室(10:00~16:30)
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