令和3年度 9月学位記授与式(卒業式)総長祝辞

Date:2021.09.18

令和3年度9月の卒業式に当たり、学校法人駒澤大学の教職員を代表し、卒業生の皆さん、そして関係される保護者の皆さまに、お祝いの言葉を述べさせていただきます。

2年が経とうとする新型コロナウイルス蔓延の影響下、延期されていた東京オリンピック・パラリンピックは無事に終了しましたが、コロナ禍自体の収束はまだまだ先のように思えます。

202010president1永井 政之 総長

すでにご存知のように、本学でも卒業式、入学式の中止やオンライン利用による式典の挙行、さらに授業のハイブリッド化などをはじめとして、あらゆる場面で試行錯誤を伴いつつの対応を余儀なくされました。大学の教職員は、関係されるさまざまな方々のご協力を得つつ、必死の努力を続けて参りましたが、結果としては、必ずしも十分ではありませんでした。

この度卒業される皆さんに即して見ても、貴重な4年余の学生生活の半分に垂んとする時間を、未曾有の事態の中で送られました。大学生として必要な「学びと研究の場」を十分に提供できず、多大な不便を被られた皆様に、大学を代表して衷心よりお詫び申し上げます。
と同時に、このような形をとらざるを得なかったにせよ、皆さんがさまざまな工夫と努力の結果、ここに無事に卒業の日を迎えられたこと、心からお祝い申し上げます。

いったいコロナウイルスの蔓延が、私たちの毎日に大きな影響を与えていることは、言うまでもありませんが、その影響力がどのような形で今後残り続け、私たちの価値観や生活を変えていくのか、「ニューノーマル」・「新常態」がどのようなものになるのか、「想定の外」にあるような気がしています。

平成に入学し、令和に卒業される皆さんが、青春を過ごした本学での学生生活を、遠い将来、どのように総括されるのか。その時が来るまで、時々刻々、変化する「ニューノーマル」の時間をどう過ごし、日本を、そして世界をどう作り上げていくのか。私は強い関心と、そして期待を持っています。

古来より「人間万事塞翁が馬」、あるいは「災い転じて福となす」という言葉があることはご存じの通りです。コロナ禍という苦難を経験された皆さんが、想定外の苦難を乗り越えて、「未来」に大輪の花を咲かせて下さることを祈ります。

いずれにせよ、ニューノーマルの時代、AIに代表されるように、まれに見るほどの科学技術の発展の結果、私たちの生活が今後ますます便利になっていくことは疑いありません。その出発点とも言うべき現在ですが、私たちは一方で、その「便利さ」を、無条件に享受していいのかという、漠然とした不安感を抱いてはいないでしょうか。

それは科学技術を生み出し、使い、さらに工夫発展させてきた私たち人間が、ある時期から、その科学技術に使われるようになりつつあることに、気づいたからだと思います。

かつてチャップリン主演の映画「モダン・タイムス」が描いたような、機械化に翻弄される人間社会、いわば主客転倒の状況が杞憂であってほしいと願いつつ、毎日を過ごし、将来を見つめているのは、私だけではないように思います。識者は、来たるべき「ウィズコロナ」の時代を前提に、現実を、むしろチャンスに切り替えることが必要と、さまざまに提言しています。聞くべき提言も少なくありませんが、その実現には相当の時間と努力が必要であること、言うまでもありません。

ただし言えることは、未来がどのような時代になるにしても、それを構築する主体は、あくまでも「人間にある」ということ、そして毎日、毎日の私たちの営みが、未来の社会を作り上げているということを忘れてはならないでしょう。

1年次の必修科目「仏教と人間」をはじめとして、さまざまな機会を通して理解されているように、駒澤大学は「仏教・禅の教え」を基本とし、具体的には「行学一如」「信誠敬愛」をもって建学の理念とします。それはどのような人生を歩むにしても、ブッダの説かれた縁起の教えに基づき、あらゆる存在に対して、慈しみの心を持って生きていく事を学び、そのような生き方を人生の基本に置くべきとの信念によります。

現代という時代だからこそ、ともすれば忘れてしまいがちな、「自分自身(自己)と他人自身(他己)を同価値・平等であると見る姿勢を失わない」生き方、「あらゆる存在にその尊厳を認める」という生き方を、「今まで以上に忘れない」ということがまず基本に置かれるべきだと、私は強く思っています。もうすこし分かりやすく言うなら「外からの誘惑・煩悩に振り回されるな」、「自分勝手に生きるな」ということになりましょう。それは、自己と他己を平等に見ることを忘れることなく、「自分を信じ、自信を持って生きる」、あるいは「自覚して生きる」という意味でもあります。

ここで「修行」という言葉を持ち出すと、何やら唐突のようで抹香臭い雰囲気すら漂いそうですが、「禅」で言う、修行とは、断食とか不眠不休とか、肉体を苛め抜く何か特別のことを行うのではなく、毎日をつつがなく過ごすための、弛まない努力を重ねていくことこそが修行の本質であり、他人の人生ではない、自分の人生を、丁寧に自分が生きること、それが「修行」だと私は考えています。

皆さんのこれからの長い人生、新型コロナウイルスの蔓延以上に、予想できないこと、思い通りにならないことが、頻出することは疑いありません。そのような場合、どう工夫し対処するか。そんなとき「振り回されない」という教えを、また「毎日が修行である」という意味を、是非、思い起こして頂きたく思います。そのことを切に念じて、皆さんの卒業に当たっての、私のはなむけの言葉といたします。

令和3年9月18日

学校法人駒澤大学
 総長 永井 政之

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