令和5年度 入学式 総長祝辞
令和5年度、駒澤大学の入学式にあたり、新入生の皆さんに対し、そしてご父母をはじめとする関係される皆様に、学校法人駒澤大学の教職員を代表して、心からのお祝いを申し上げます。
令和元年秋にはじまり、アッという間に、全世界に広まった新型コロナウイルスは、わずか3年半の間に、社会のあらゆる分野に、大きな影響と被害を与えました。この間のさまざまな出来事を、私たちは、それぞれの立場において、身をもって体験し、まさしく「歴史の証人」の1人となりました。
ともあれ、さまざまな対策の結果、3月にはマスクの着用も緩和され、また5月の連休明けには医療のレベルも引き下げられますから、コロナ禍もようやく出口が見えそうなところまで来た、と言えそうです。そんな中での本日の入学式です。
本日、駒澤大学は、総じて3500人を超える、新入生の皆さんを、お迎えいたしました。
これはひとえに、貴重な青春の4年間を、駒澤大学で学ぼうと決意された皆さんの覚悟、また駒澤大学の教育方針に関心を寄せ、ご子女の将来を託されようとされた、ご父母の皆さんの思いなど、さまざまな「ご縁」が結実した結果にほかならないと、私たち教職員全員、厳粛かつ真摯に受け止めております。そして、そのようなご縁とご期待に背かないようにと、決意を新たにしております。
ところで皆さんは、すでにさまざまな紹介資料を通して、駒澤大学が仏教、なかんずく、曹洞宗によって設立された、いわゆる、仏教系の大学であることを知っておられるものと思います。奇しくも、今日4月8日は「花祭り」。――正式には降誕会と呼ばれますが――仏教を開かれたブッダ・お釈迦様の誕生日とされる日です。学内の禅文化歴史博物館では、赤ちゃん姿のお釈迦様の像をおまつりし、甘茶をそそいで、お祝いをするための花御堂が準備されています。のちほど、お参りしていただければ幸いです。
さて、駒澤大学の淵源や歴史などについては、すでに皆さんに配られているパンフレット、「学校法人駒澤大学 建学の理念」において、そのあらましが記されております。
また、駒澤大学では入学後、全学部の1年生に、必修科目「仏教と人間」の履修をお願いしています。そこでは、「宗教とは」、「仏教とは」、「禅とは」など、多分、今までの受験勉強では触れられることのなかった世界が、担当の先生方によって、丁寧に講義されることになっております。重複なしとしませんが、駒澤大学について、その一端を述べさせていただきましょう。
駒澤大学は、文禄元(1592)年に、江戸神田台(のちの駿河台)にあった、吉祥寺というお寺に開かれた、「旃檀林」という学寮から発展いたしました。「栴檀は、双葉より芳し」と言われる「栴檀」です。中国、唐の時代、あるお坊さんは、「栴檀の林には雑木はない。そして、そこに住めるのは百獣の王とされる獅子だけだ」という言葉を残しました。校歌に「旃檀林、旃檀林」とある由縁です。
このようなエピソードをうけて、この学寮では志ある若者を、立派なお坊さんに育て上げるための教育が24時間体制でなされました。
学寮は歴史と共に発展展開し、現在では仏教学部、文学部、経済学部、法学部、経営学部、医療健康科学部、グローバル・メディア・スタデーズ学部など、総じて「7学部、17学科」、大学院には法科大学院を含む「9研究科、15専攻」を擁するにいたりました。
このように、現在の駒澤大学では、仏教や禅の教えを基本としつつ、さまざまな分野の学問研究と教育がなされています。それは仏教を創唱されたブッダ(中央にまつられる仏さま)、福井県に大本山永平寺を開かれた道元禅師(向かって右側)、現在は横浜市にある大本山總持寺を開かれた瑩山禅師(向かって左側)――この3人を私たちは「一仏両祖」と総称し尊崇しますが――このお三方が説かれた教えが、ひとりお坊さんという限られた世界のものではなく、万人の生き方に深く関わる「普遍性」を持つと、信じるからであります。
そもそもブッダは、「縁起」という教えを説かれました。分かりやすく言うなら、それは、「全ての存在は結びつきによって成り立っている。単独で存在するものはない」という教えです。「あらゆる存在は互いに支え合って存在している」とも、言い換えられましょう。「仏教」は、私たちに、そのような教えを理解して信じる「智慧」を我がものとすること、そして、「縁起」の故にこそ、常に「慈しみの心」を忘れることなく、生きていくべきことを求めます。
駒澤大学は寄附行為において、「仏教の教義と曹洞宗立宗の精神」を建学の理念と定め、ときにそれを「行学一如」という四字の熟語で表現し、具体的な実践の徳目として「信誠敬愛」を掲げます。「行学一如」とは、生き方と学びの一致を意味します。
また、校歌にも歌われる「信誠敬愛」の「信」は、教えを信じ、個々の尊厳を信じて生きること。「誠」は教えに対し、また自分自身に対して誠実であること。「敬」は教えを敬い、他を敬いつつ生きること。「愛」はあらゆる存在に対して、「慈しみの心」を持って生きるべきことを言います。
現代社会のさまざまな分野における日進月歩の発展は、筆舌に尽くしがたいことを、誰もが実感していると思います。私たちは、そのような発展の成果を享受し、謳歌しつつ毎日を生きています。しかし、「そこに問題はないのか」とも、私たちは感じています。
今に始まったことではないにせよ、「人間中心」、「自己中心」、そして「自国中心」の風潮は、明らかにどこかバランスを欠いたものと思えてなりません。利便性や経済性を追求した結果、「人間性」が劣化してしまったと言ったら、言い過ぎでしょうか。近年、国連がSDGsを提唱するのは、まさしくこのような現代が持つ、さまざまな問題に対する危機感の表れと言っても、良いように思います。
同時に私は、そのような、人間が固有する欲望に対する対処をめぐって、すでに2500年前のインドにおいて、ブッダが、「あらゆる存在」のそれぞれが、互いの尊厳を認め合い、それを現実に生かす営みを、弛まなく続けることの大切さを、教えられていたことを思い出します。そして、そのような生き方が、今、求められているのではないかと考えています。
皆さんは、大学生として、自ら選んだそれぞれの分野を通し、より理想的な人生を送るべく歩みを進められます。大学生活が過ごしようによって、人生における最も有意義な時間となることは、今更、言うまでもありません。そして、その有意義さを構築する大きな柱の一つとして、「今までにない出会い」を挙げる事ができると思います。講義の場で、クラブ活動の場で、「出会い」のチャンスはいくらでもあります。
知識を得るだけなら、無理して大学に入る必要はありません。あらましの知識なら、インターネットを通して知ることができます。簡単な外国語なら翻訳してくれますし、最近話題のチャットGPTに象徴されるような「生成AI」もあります。さまざまな分野におけるデジタル化が、今まで考えられなかった利便性を、私たちにもたらすことは、疑いないでしょう。
しかし一方では、極度に発達したAIが、人間に代わって「問題を考え、処理してくれる」ようになる。すると「一部の人間は考える必要がなくなる」と予想する識者もいます。もしそうなったとすると、かつてパスカルが言った「人間は考える葦である」という言葉が、意味をなさなくなってしまいます。考える人間と、考えない人間が混在する世界とは、どのようなものなのでしょうか。
今後、デジタル化がますます進み、それがさまざまな分野で、文明の発展に寄与することを、誰もが予想しています。
しかし、「人」と出会うためには、アナログの世界も欠いてはならないでしょう。むしろデジタル化を拒否できない現代社会だからこそ、「人」と出会う上で、「対面」という出会いは、より重要な意味を持つのではないかと、私は考えています。
中国、春秋時代の斉の国の宰相だった管仲が残した言葉に、「我を生みし者は父母、我を成せし者は朋友」という言葉があります。大望を抱きつつも不遇な青春時代、常に信じ支えてくれた友人の鮑叔を評した言葉です。どんな時でも、自分を理解し、志を一つにしてくれた友人のお陰で、今の自分があるというのです。「朋友、親友」の大事さを伝えるこのエピソードは、「管鮑の交わり」として知られ、修行の仲間を大事にする、禅の修行者によっても使われます。
また13世紀の鎌倉時代、道元禅師は中国に渡って、生涯の師匠である如浄禅師という方と出会われました。そのときの「出会い」を、「我、人に逢うなり――我逢人――」と述懐されています。結果的に、寝食を共にする生活を通し、ブッダ以来の「坐禅」の教えをわがものとして帰国され、後に永平寺を開かれました。「対面」――道元禅師はこれを「面授」と表現されます――が、禅の教育の中心にある証左とも言えます。
4年という歳月は長そうですが、私自身の経験からしても、学生生活はアッという間に過ぎ去ります。くどいようですが、「出会い」には、「善い出会い」も「悪い出会い」もあります。これからの大学生活が、より望ましい方向へ進むべく、正しい選択につとめ、皆さんの入学を祝って将来を気遣って下さるご父母の思いに背くことなく、無事に過ごされますよう祈ります。私たち教職員一同も、皆さんが「旃檀林において、未来の獅子たるべく成長されるよう」できる限りのお手伝いをさせていただきます。
令和5年4月8日
学校法人駒澤大学 総長 永井 政之