令和3年度 入学式 総長祝辞

Date:2021.04.15

昨年度、令和2年度に入学された皆さん、そして今年度、令和3年度に入学された皆さんをともどもお迎えし、合同で行われる入学式にあたり、学生の皆さんに対してはもとより御父母をはじめとする関係される皆様に、学校法人駒澤大学の教職員を代表して心からのお祝いを申し上げさせていただきます。

新型コロナウイルスによる感染を避けるために、誠に残念なことですが式典についてはライブ配信を利用するという、かつてなかった形での入学式なってしまいました。
先ほどの各務新学長の式辞にもありましたが、令和2年度、つまり昨年度の入学式は、まったく想定外のコロナ禍のもと中止の止むなきに至ってしまいました。
その間、教職員はこの緊急事態に対処すべく一丸となって努力してまいりました。しかしそれは決して十分とは言えず、結果として学生の皆さんは1年もの貴重な時間をオンラインによる授業など、さまざまな不便を感じつつ、過ごさざるを得なくなってしまいました。

大学としては、「三密」を避けつつ授業時間、授業内容をいかに確保するか。そのことを常に最優先の課題として努力を重ねてまいりました。しかしその結果、「どこかの時点で入学式を」という思いはついに実現することができませんでした。大学生として出発する、その起点とも言うべき入学式を行い得なかったことを、令和2年度入学生・今年度新2年生となられた皆様にあらためて遺憾の意を表させて頂きます。
そして遅ればせではありますが、皆さんの本学への御入学をお祝い申し上げます。

勿論、あえて申し上げるなら、このように形の上での問題は残っているにせよ、皆さんの門出を祝う私たちの気持ちは、従前の入学式といささかも変わるものではありません。重ねて皆さんのご入学をお祝いし歓迎いたします。

コロナウイルスの蔓延の状況によっては、今後についても未知数な部分が少なくないのですが、新入生、在校生に関わらず全学生の皆さんの御理解と御協力を得つつ、教職員一丸となって、大学本来の目的達成のために精一杯の努力をすることをお誓いいたします。

さて言うまでもなく、本日4月8日は「花祭り」。仏教を開かれたブッダ・お釈迦様の誕生日とされる日です。皆さんの新たなる出発の日として、これ以上ふさわしい日はないと私は考えています。

ところで皆さんは、本学を選ばれるにあたり、さまざまな資料を通して駒澤大学が仏教、就中、曹洞宗によって設立された、所謂、仏教系の大学であることを認識されたものと思います。
いったい駒澤大学の淵源や歴史などについては、すでに皆さんに配られているパンフレット、「学校法人駒澤大学 建学の理念」においてあらまし記されております。新2年生の皆さんは、1年間の授業をとおして、その内容を履修され、単位を取得された方、少なくないと推察いたします。

これから履修届を出される新1年生の皆さんにあえて申し上げるなら、駒澤大学では入学後、全学部の1年生に、必修科目「仏教と人間」の履修を御願いしています。そこでは「宗教とは」「仏教とは」「禅とは」など、多分、今までの受験勉強では思いもよらなかった世界が、担当の先生方によって丁寧に講義されることになっております。

今は重複することを恐れつつも、駒澤大学についてその「概略」を述べさせていただきましょう。
いったい駒澤大学は、文禄元年(1592)に江戸神田台(のちの駿河台)にあった吉祥寺というお寺に開かれた「栴檀林」という学寮を淵源とします。「栴檀は双葉より芳し」と言われる「栴檀」です。中国、唐の時代、あるお坊さんは「栴檀の林には雑木はない。そこに住めるのは百獣の王とされる獅子だけだ」という言葉をのこしました。

このようなエピソードを承け、この学寮では有意な若者を立派なお坊さんに育て上げるための教育が24時間体制でなされました。この学寮制度は明治になってもしばらくの間続きましたが、大正14年、文化系の単科大学、昭和24年には仏教学部、文学部、商経学部を擁する新制総合大学となり、のち法学部、経済学部、経営学部などが新設され、現在ではさらに、医療健康科学部、グローバル・メディア・スタディズ学部、法科大学院など、総じて「7学部、17学科」、大学院では9研究科、15専攻を擁するにいたりました。

このように駒澤大学においては、仏教や禅の教えを基本として、さまざまな分野の学問研究と教育がなされています。それは仏教を創唱されたブッダ、大本山永平寺を開かれた道元禅師、大本山総持寺を開かれた瑩山禅師――このお三方を私たちは「一仏両祖」と総称し尊崇していますがーーこのお三方が説かれた教えが、ひとりお坊さんという限られた世界のものではなく、万人の生き方に深く関わる「普遍性」を持つと信じるからであります。

そもそもブッダは「縁起」という教えを説かれました。
あらゆる存在はすべて結びつきによって成り立っている。単独で存在するものはない。諸法無我と表現されます。さらにあらゆる存在は常に変化し続けている。変化しないものはない。諸行無常と表現されます。私たち仏教徒には、そのような教えを理解し信じる智慧を我がものとし、その故にこそ、常に「慈しみの心」を忘れることなく生きていくべきことが求められます。
駒澤大学ではこれを、「行学一如」という四字の熟語で表現し、具体的な実践の徳目として「信誠敬愛」と表現します。
行学一如とは学びと生き方の一致を意味します。

また校歌にも歌われる「信誠敬愛」の、信は教えを信じ、個々の尊厳を信じて生きること。誠は教えに対し、また自分自身に対して誠実であること。敬は教えを敬い他を敬いつつ生きること。愛は慈しみの心を持って生きることを言います。
現代社会における、さまざまな分野における日進月歩の発展は筆舌に尽くしがたいことを、誰もが実感していると思います。私たちは、そのような発展の成果を享受しつつ毎日を生きています。

同時に「そこに問題はないのか」とも私たちは感じています。今に始まったことではないにせよ、「人間中心」「自己中心」、時に「自国中心」の風潮は、明らかにどこかバランスを欠いたものと思えてなりません。利便性や経済性を追求した結果、人間性が劣化してしまったと言ったら言い過ぎでしょうか。
結論はすぐには出そうもありませんが、ここで私は、ブッダが、「あらゆる存在」それぞれが互いの尊厳を認めあい、それを現実に生かす営みを弛まなく続けることの大切を教えられたことを思い出します。そしてそのような生き方が、今、求められているのではないかと考えています。

皆さんは、大学生として自ら選んだそれぞれの分野を通し、より理想的な人生を送るべく歩みを進められます。大学生活が過ごしようによっては、最も有意義な時間となること、今更言うまでもありません。そして、その有意義さを構築する、大きな柱の1つとして、「今までにない出会い」を挙げる事ができると思います。講義の場で、クラブ活動の場で、チャンスはいくらでもあります。

道元禅師は、中国に渡って、師匠である如浄禅師という方と出会い、禅の教えをわがものとされ日本に伝えられましたが、その時の出会いを「われ人に会うなり」と述懐されました。
知識を得るだけなら大学でなくてもいい。あらましの知識ならインターネットを通してうることができる。しかし「人」と出会うためには、リアルの世界も欠いてはならない。むしろネット社会だからこそ、「人」と出会ううえで「対面という出会い」は、より重要な意味を持つのではないかと、私は考えています。

もっとも新型ウイルス禍のもとでは、「出会い」には今まで以上の工夫と慎重さが必要、ということも忘れてはいけません。
4年という歳月は長そうですが、私自身の経験からしてもアッという間に過ぎ去ります。すでに1年をすごされた新2年生は、よりその感を強くされているものと思います。
人生の最も充実した大学における生活を無事に過ごせますよう祈ります。また教職員も力を合わせ、皆さんが「未来の獅子たるべく成長されるよう」、お手伝いをさせていただく所存です。
月並みな言い方になりますが「頑張ってください」と申し上げて、皆さんの入学への祝辞といたします。

令和3年4月8日
学校法人駒澤大学 総長 永井 政之