令和3年度 学位記授与式(卒業式)総長祝辞

Date:2022.03.30

令和3年度の学位記授与式に当たり、学校法人駒澤大学の教職員を代表してお祝いの言葉を述べさせていただきます。

今席には各学部の卒業生、およびその大学院の修了生がお集まりです。またライブ配信にて参加の皆さんもいらっしゃいます。皆さん、ご卒業、ご修了、おめでとうございます。

202010president1永井 政之 総長

さて新型コロナウイルスが世界中を覆い尽くした結果、マスクの着用や東京オリンピックの延期に象徴されるように、2年半になんなんとする間、いままで当たり前のように過ごしてきた日常生活が、大転換を迫られることとなりました。本学でも、たとえば昨年の卒業式はライブによる式典の配信、個別の学位記授与をもって卒業式としました。4月の入学式は前年度分と合同で実施しましたが、これもライブ配信でした。皆さんが経験されたように、普段の授業は一部が対面となったものの、ほとんどがオンラインで行われるなど、学生の皆さんも、教職員も未曾有の対応を余儀なくされました。

本来ならば本日の卒業式も、ご父母をはじめとする多くの関係者のご列席を得、多くの友人たちとともに、卒業を祝福し合い、さまざまな方々からの心温かい激励を戴きたかっただろうと思います。

しかし、新型コロナへの対策もあって、このように大幅な変更を余儀なくされた卒業式となってしまいました。誠に残念な事と思っています。

もちろん、そのような幾多の障害にもかかわらず、多くの学生諸君は、勉学、スポーツ、友人関係など、あらゆる場面で、新たな世界の構築に勤しまれたものと想像しています。

そのいちいちを挙げる暇はありませんが、たとえば陸上競技部やサッカー部、ボクシング部などの活躍は、ひたむきな努力の結果を示す朗報として、またマスコミ等の取り上げるところまでには至らなくても、地道に自分たちの世界を求められた、文化関係のクラブの活動、そして何よりも、様々な機会を通して知り合った、かけがいのない友人たちとの交流など、そのどれもが長く皆さんの記憶に残るものと信じています。

いずれにしても、4年間の大学生活の過半を、さまざまな不自由のもとで過ごされた皆さんに対し、大学として、必ずしも十分な対応がなしえなかったことを、改めて衷心よりお詫び申し上げます。同時に皆さんが、さまざまな困難を乗り越えて、ここに晴れの卒業式を迎えられたことを、重ねてお祝い申し上げます。

申すまでもなく、大学での学びの区切りとなる卒業式ですが、皆さんを待ち受けている新しい生活が、どのようなものになるのか。ワクチン接種の普及、まん延防止等重点措置の解除など、一筋の光明とも言える出来事もあります。ただ社会全体を俯瞰したとき、私たちの心中には、未来への期待がある一方、「本当に大丈夫なのか」という、一抹の不安があることも、否定できないのではないでしょうか。

ここ数年来のコロナウイルスの蔓延が、私たちの毎日に、大きな影響を与えたことは言うまでもありません。

戸惑いつつも受け入れざるを得なかった、「オンライン授業」などはその端的な例と申せましょう。それら数え切れない影響力が、どのような形で今後残り続け、私たちの価値観や生活を変えていくのか、もはや想像の域を超えていると言ったら言い過ぎでしょうか。

今更申すまでもなく、皆さんが船出しようとするこれからの社会は、「ニューノーマル・新常態」と呼ばれる社会です。

「平成」に入学し、コロナ禍の「令和」に卒業される皆さんが、遠い将来、青春を過ごした本学での学生生活を、どのように総括されるのか。そしてその総括の時までの長い、ニューノーマルの時間をどう過ごされ、日本を、そして世界をどう作り上げていくのか、私は強い関心を持っています。

コロナ禍のもと、識者からは、来たるべき時代を「ウイズコロナ」と思いを定め、明るい未来をめざし、現実をむしろチャンスに切り替えることが必要と、さまざまな提言がなされています。

しかし一方、一部の識者は「将来、人工知能AIと人間の境目がなくなる。時にはAIが人間を支配する」とか、「多くの人間は、考えることをAIに委ね、自分は考えなくなってしまう。」などと危惧の念をあらわにします。将来におけるAIと人間の関係など、抱える問題の大きさに鑑みれば、一朝一夕に結論が出るとはとても思えません。

ここで言えることは、未来がどのような時代になるにしても、それを作り上げ、構築する主体は、あくまでも私たち「人間」だと言うことです。毎日毎日の私たちの営みが、未来に繋がっている事を忘れてはいけません。

すでに何度も耳にされ、理解されているように、駒澤大学は「行学一如」をもって建学の理念とします。それはどのような人生を歩むにしても、ブッダの説かれた「縁起の教え」を基とし、あらゆる存在に対して、常に「慈しみの心」を忘れない、という生き方です。

デジタル化一直線を拒否できない現代です。私たちが、益々その恩恵に浴することは、疑いありません。

同時に、人間関係が希薄になりがちな社会だからこそ、ともすれば忘れてしまいがちな、「自分自身(自己)と他人自身(他己)を同価値・平等であると見る姿勢を失わない」生き方、「あらゆる存在にその尊厳を認める」生き方を、「今まで以上に忘れない」ということが、まず念頭に置かれるべきだと、私は強く思っています。

最近、とみにその傾向を強くしているように思われる自己中心的な考え方や行動―それは個人のレベルから、ロシアによるウクライナ侵攻のように、国家同士の関係においてもみられるところですが―そのような生き方は、仏教を学んだ私たちにおいて、決して取るべき道ではないことは、言うまでもないでしょう。

先にも申しましたように、卒業は一つの区切りではあります。しかし最終帰着の時ではありません。

4年にわたる駒澤大学での学びを踏まえつつ、自らの世界を構築する営みの今日がその出発の日であります。

ちなみに申すなら、「日日是好日」という言葉があります。中国の禅僧の言葉として「仏教と人間」の授業で聞かれたかもしれません。

何よりも近年では茶道を学ぶことを通して人間として成長する過程をテーマとした森下典子氏による同じ題名での単行本が刊行され、また同書を原作として亡き樹木希林さんが出演する映画としても公開されました。

本学でも禅ブランディング授業の一環として上映会が催され、監督である、本学文学部出身の大森立嗣氏、学長各務先生、私の3人で鼎談(ていだん)も行いました。その間のこまごました部分はしばらく措かせていただきます。

「日日是好日」、「毎日、毎日がよい日である」との深意はどこにあるのでしょう。それは、天候が良いとか、仕事がうまくいったとか、さまざまな周囲のありようが、思い通りにうまくいっているという意味では決してありません。結論的に申すなら、「何があっても」「思い通りになってもならなくても」「今しかない」と思いを定めて毎日を生きていくこと。「繰り返しのない命を真剣に生きている毎日」、「諸行無常の毎日」を、「かけがえのない日々」と評価した言葉が「好日」だと私は受け止めています。

また、毎日、毎日を「好日」とすべく、弛まぬ努力を積み重ねていくことは、「修行」だとも思っています。

「修行」という言葉は一般的には「断食」や「滝行」など、ともかく肉体を苛めて心を清めようとする、過酷な行としてイメージされます。

しかし禅の立場からすれば、「修行」とは何か特別のことを行うのではなく、「人間としての毎日を、つつがなく過ごすための、弛まない努力」、それこそが修行であり、その姿こそが個々の「人間の尊厳」を十全に現わした世界、悟りの世界だと考えます。

弛まぬ努力は、生きている限り、考え方によっては死んでも続き、「これで十分」というゴールはない、というのがブッダ、道元禅師、瑩山禅師、すなわち「一仏両祖」の立場であることを忘れないで下さい。

皆さんのこれからの長い人生、新型コロナウイルスの蔓延以上に、予想できないこと、思い通りにならないことが頻出することは、疑いありません。

そのような時、どう工夫し対処するか。駒澤大学で学んだ「仏教や禅」が説く、「毎日が修行である」という教えを踏まえつつ、4年をかけて学んだ専門の知識に一層の磨きをかけ、「自分の世界」を「好日」とすべく、作り上げていってほしいと思います。そのことを切に念じて、皆さんの卒業に当たっての、私のはなむけの言葉といたします。

ご卒業、おめでとうございます。

令和4年3月吉日

学校法人駒澤大学
 総長 永井 政之