令和2年度 9月学位記授与式(卒業式)総長祝辞

Date:2020.10.05

令和2年度9月の卒業式に当たり、学校法人駒澤大学の教職員を代表してお祝いの言葉を述べさせていただきます。

新型コロナウイルスが世界中を覆い尽くした結果、東京オリンピックの延期に象徴されるように、年初以来、さまざまな行事が中止、延期、規模の縮小など、その対策を余儀なくされて、久しい時間が経過しました。

202010president1永井 政之 総長

本学でも3月の卒業式、4月の入学式の中止、授業のオンライン化など未曾有の対応に追われたことは、卒業生の皆様も十分にご承知の通りです。そして必ずしも十分ではない対応の中、大学生として最後の年を送られるに当たり、多大な不便を被られた皆様に、衷心よりお詫び申し上げるとともに、苦難を乗り越えてここに晴れの卒業式を迎えられたこと、心からお祝い申し上げます。

大学での学びの区切りとなる卒業式ですが、皆さんを待ち受けている新しい生活がどのようなものになるのか、多分、心中は期待と不安のまっただ中にあるものと拝察します。

申すまでもなく、皆さんが船出しようとするこれからの社会は、「ニューノーマル・新常態」と呼ばれる社会です。

コロナウイルスの蔓延が私たちの毎日に大きな影響を与えたことは言うまでもないことですが、その影響力がどのような形で今後残り続け、私たちの価値観や生活を変えていくのか、たぶん想像の域を超えるのではないかと言ったら言い過ぎでしょうか。

平成に入学し、コロナ元年とも言うべき「令和」に卒業される皆さんが、遠い将来、青春を過ごした本学での学生生活を、どのように総括されるのか。そしてその総括の時までの長い、ニューノーマルの時間をどう過ごされ、日本をそして世界をどう構築していくのか、私は強い関心を持っています。

ニューノーマルの時代、AIに代表されるように、まれに見るほどの科学技術の発展の結果、私たちの生活がますます便利になっていくことは疑いありません。その出発点とも言うべき現在ですが、ニューノーマルに対して、私たちは、政治、経済、社会をはじめとするさまざまな分野で、幸福を無条件に享受しきれないのではないかという、漠然とした不安感を抱いてはいないでしょうか。

それは科学技術を生み出し、使い、さらに工夫発展させてきた私たち人間が、ある時期から、その科学技術に使われるようになりつつあることに、気づいたからだと思います。そのような主客転倒の状況が杞憂であってほしいと願いつつ、毎日を過ごし、将来を見つめているのは、私だけではないように思います。

コロナ禍の中、識者からは、来たるべき時代を「ウイズコロナ」と思いを定め、明るい未来をめざし、現実を、むしろチャンスに切り替えることが必要と、さまざまな提言がなされています。

しかし抱える問題の大きさに鑑みるとき、提言の実現には相当の時間と努力が必要と思われます。

個々の人間がなしうることは時、処、位によって異なるでしょうし、あくまでも限られた範囲に止まらざるをえない、というのが現実かもしれません。

ただし言えることは、未来がどのような時代になるにしても、それを構築する主体は、あくまでも「人間」だと言うことです。毎日、毎日の私たちの営みが、未来の社会を作り上げていることを忘れてはいけません。

すでに何度も耳にされ理解されているように、駒澤大学は「行学一如」「信誠敬愛」をもって建学の理念とします。それはどのような人生を歩むにしても、ブッダの説かれた縁起の教えに基づき、あらゆる存在に対して、慈しみの心を持って生きていく事を学び、そして人生の基本に置くべきとの信念によります。

現代という時代だからこそ、ともすれば忘れてしまいがちな、「自分自身(自己)と他人自身(他己)を同価値・平等であると見る姿勢を失わない」ような生き方、「あらゆる存在にその尊厳を認める」という生き方を、「今まで以上に忘れない」ということがまず基本に置かれるべきだと、私は強く思っています。

すでに「仏教と人間」の授業において講義されたかも知れません。禅の公案に「瑞巌主人公」と題するエピソードがあります。中国、唐の時代に瑞巌師彦という禅僧がいました。瑞巌は毎日坐禅をする中で、自分自身に「主人公」と呼びかけ、自身で「ハイ」と答え、さらに言葉をついで「起きているか。だまされるなよ」「ハイハイ」と自問自答したと伝えられます。

「だまされるなよ」が、「自分を見失うな」という意味であることは言うまでもありません。

もうすこし分かりやすく言うなら「煩悩に振り回されるな」、「欲望のままに生きるな」ということになりましょう。煩悩といい、欲望というと、我々は多分良いイメージを持たないと思います。しかし欲望のない人間はいないというのも現実ですし、その欲望の延長線上に、現代の繁栄と、さまざまな問題の根源があることは自明です。繁栄をもとめることを一概に否定することはできません。しかしその方向を誤ると取り返しのつかない結果が訪れるであろうことも自明です。

「ふりまわされない」という生き方は、自己と他己を平等に見つつ、「自分を信じ自信を持って生きる」、あるいは「自覚して生きる」という意味でもあります。ここで「修行」という言葉を持ち出すと、何やら唐突のようですが、修行とは何か特別のことを行うのではなく、毎日をつつがなく過ごすための、弛まない努力こそが修行の本質であり、道元禅師の『典座教訓』の言葉を借りるなら、「他は是れ吾にあらず」。他人の人生ではない、自分の人生を丁寧に自分が生きることこそが「修行」だと私は考えています。

皆さんのこれからの長い人生、新型コロナウイルスの蔓延以上に、予想できないこと、思い通りにならないことが、頻出することは疑いありません。そのような場合どう工夫し対処するか。そんなとき「振り回されない」という教えを、また「毎日が修行である」という意味を、是非、思い起こして頂きたく思います。

そのことを切に念じて、皆さんの卒業に当たっての、私のはなむけの言葉といたします。

令和2年9月19日

学校法人駒澤大学
 総長 永井 政之

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