令和2年度 学位記授与式(卒業式)総長祝辞

Date:2021.03.31

令和2年度3月の卒業式に当たり、学校法人駒澤大学の教職員を代表してお祝いの言葉を述べさせていただきます。

新型コロナウイルスが世界中を覆い尽くした結果、マスクの着用や東京オリンピックの延期に象徴されるように、1年半に垂んとする間、いままで当たり前のように過ごしてきた日常生活が、大転換を迫られることとなりました。

202010president1永井 政之 総長

本学でも、昨年3月の卒業式は学位記授与のみ、4月の入学式は中止、授業は一部が対面となったものの、殆どがオンラインで行われるなど、未曾有の対応に追われました。

もちろんそのような幾多の障害にもかかわらず、多くの学生諸君は勉学、スポーツ、友人関係などの再構築に勤しまれたように仄聞しております。そのいちいちを挙げる暇はありませんが、たとえば陸上競技部による伊勢駅伝、箱根駅伝の優勝などは、ひたむきな努力の結果を示す朗報として、長く私たちの記憶に残るものと信じています。

いずれにしても、未経験の連続とも言える、大学生として最後の年を、さまざまな不便のもとで過ごされた皆様に、大学として、必ずしも十分な対応がなしえなかったことを、衷心よりお詫び申し上げます。

同時に皆様がさまざまな困難を乗り越えて、ここに晴れの卒業式を迎えられたことを、心からお祝い申し上げます。本来ならば本日の卒業式も、学部を超えた友人たちと共に卒業を祝福し合い、旅立ちにあたって、恩師からの心温かい激励を戴きたかった所だろうと思います。新型コロナへの対策もあって、このように一部オンラインを利用しての卒業式となってしまったことは、誠に残念な事と思っています。

さて大学での学びの区切りとなる卒業式ですが、皆さんを待ち受けている新しい生活がどのようなものになるのか。緊急事態宣言の解除や、ワクチン接種の開始など、一筋の光明とも言える出来事もあります。ただ私たちの心中は、それらへの期待とともに、「本当に大丈夫なのか」という、一抹の不安があることも否定できません。

申すまでもなく、皆さんが船出しようとするこれからの社会は、「ニューノーマル・新常態」と呼ばれる社会です。コロナウイルスの蔓延が、私たちの毎日に大きな影響を与えたことは言うまでもないことですが、その影響力がどのような形で今後残り続け、私たちの価値観や生活を変えていくのか、想像の域を超えていると言ったら言い過ぎでしょうか。

平成に入学し、コロナ禍の「令和」に卒業される皆さんが、遠い将来、青春を過ごした本学での学生生活を、どのように総括されるのか。そしてその総括の時までの長い、ニューノーマルの時間をどう過ごされ、日本をそして世界をどう作り上げていくのか、私は強い関心を持っています。

コロナ禍のもと、識者からは、来たるべき時代を「ウィズコロナ」と思いを定め、明るい未来をめざし、現実を、むしろチャンスに切り替えることが必要と、さまざまな提言がなされています。しかし将来におけるAIと人間の関係など、抱える問題の大きさを考えたとき、提言の実現には相当の時間と努力が必要と思われます。

個々の人間がなしうることは時、処、位によって異なるでしょうし、あくまでも限られた範囲に止まらざるをえない、というのが現実でしょう。ただし言えることは、未来がどのような時代になるにしても、それを構築する主体は、あくまでも「人間」だと言うことです。毎日毎日の私たちの営みが、未来に繋がっている事を忘れてはいけません。

すでに何度も耳にされ、理解されているように、駒澤大学は「行学一如」「信誠敬愛」をもって建学の理念とします。それはどのような人生を歩むにしても、ブッダの説かれた縁起の教えを基とし、あらゆる存在に対して、常に慈しみの心を忘れない、という教えです。現代という時代だからこそ、ともすれば忘れてしまいがちな、「自分自身(自己)と他人自身(他己)を同価値・平等であると見る姿勢を失わない」ような生き方、「あらゆる存在にその尊厳を認める」という生き方を、「今まで以上に忘れない」ということが、まず基本に置かれるべきだと、私は強く思っています。

「仏教と人間」の授業において受講されたかも知れません。禅の公案に「慧超問仏」と題するエピソードがあります。中国、唐末の時代に法眼文益という禅僧がいました。その法眼に慧超という弟子が質問します。「悟りを開かれた人、仏とはどのような人ですか」。法眼は「おまえは慧超だったね」と答えました。

悟りを開いた仏の意味を聞かれたとき、相手の名前を呼ぶというこの公案、結論を述べれば、仏と言っても特別な存在ではなく、道を求めて真剣に修行の生活を送り、いま私に質問している「おまえさん自身だ」ということになります。聖なる世界を求める一方、心の奥底に何らかの欲望・煩悩を抱えている、というのが、現実における「人間」のありようです。法眼の答えは、聖俗合わせ持ちつつ、いま精一杯生きている「おまえさん」こそが、「仏」に他ならないということになります。

もうすこし突き詰めて言うなら、「人間としての尊厳は、ブッダでもお前でも変わりがないが、だからこそ、いい加減に生きてはならない」。それはつまり「固有する煩悩に振り回されるな」、「欲望のままに生きるな」ということになりましょう。煩悩といい、欲望ということばに、私たちは良いイメージを持ちません。しかし欲望のない人間はいないというのも現実ですし、その欲望の延長線上に、現代、私たちが享受している繁栄と、さまざまな問題の根源があることは自明です。繁栄を求める事を一概に否定することはできません。しかしその方向を誤ると、取り返しのつかない結果が訪れるであろうことも自明です。

「ふりまわされない」という生き方は、自己と他己を平等に見つつ、「自覚して生きる」ということです。

「修行」という言葉があります。禅の立場からすれば、「修行」とは何か特別のことを行うのではなく、毎日をつつがなく過ごすための、弛まない努力が修行であり、その姿が個々人の尊厳を十全に現した世界、悟りの世界だと考えています。皆さんのこれからの長い人生、新型コロナウイルスの蔓延以上に、予想できないこと、思い通りにならないことが頻出することは、疑いありません。そのような場合、どう工夫し対処するか。そんなとき、「振り回されない」という教えを、また「毎日が修行である」という意味を、是非、思い起こして頂きたく思います。

そのことを切に念じて、皆さんの卒業に当たっての、私のはなむけの言葉といたします。ご卒業、おめでとう御座います。

令和3年3月吉日

学校法人駒澤大学
 総長 永井 政之