不死のワンダーランド : 戦争の世紀を超えて(西谷 修著)

眼横鼻直(教員おすすめ図書)
Date:2022.11.01

書名 「不死のワンダーランド : 戦争の世紀を超えて」
著者 西谷 修
出版社 講談社
出版年 1996年7月
請求番号 080/9-1240
Kompass書誌情報

不可解なものは驚きを引き起こす。怖いかもしれない。危険を感じるかもしれない。それでも不可思議をそのまま受け入れて、「未知の体験のなかで無防備な驚異に身を委ね、その驚異によってこの体験を肯定すること」、それが、旅する人の「もっとも自由で積極的な姿勢」、「ワンダフル」な体験ともなるだろう。

ここに紹介するのは、そのように述べる著者の、肯定の思考に貫かれた哲学的な本だ。

人はいずれ死ぬ。しかし、人は死んでしまってから、「私は死んだ!」と叫ぶことはできない。たとえば、モーリス・ブランショという作家は、「『私』は死ぬことはできず、死ぬのは〈ひと〉だ」と述べたという。「私」に「固有の死」はないということだ。

これが本書の示す「不死」についての基本的な考え方である。「私」は、自分の死を自分のものとすることのできないワンダーランドを生きている。どういうことだろうか。

ソポクレスの『アンティゴネー』というギリシャ悲劇のなかで、合唱隊の声が、「人間ほど不思議なものはない」とうたう。人間たちが永劫手放すことのない知性と思考は、彼らの道を善にも悪にも向かわせるのだから、まったくもって驚かされる、そのように声はうたう。

この不思議なもの、驚くべきものは、「デイノン」というギリシア語で示されるらしい。英語は「ワンダー wonder」、フランス語は「メルヴェーユ merveille」と訳される。アリスの驚異の国も思い浮かぶ。ところがマルティン・ハイデガーという哲学者は、ある講義でその言葉を「不気味なもの」と訳した。ドイツ語で「ウンハイムリッヒ unheimlich」、それは「非-故郷的なもの」を含意する。著者による重要な指摘だ。

そうなると、ランドは不気味な荒野である。だから人は凡庸な日常から目を醒まし、みずからのあるべき姿(本来性)を回復させ、そんな荒野からは脱しなければならない。「頽落」から「覚醒」へ。事を〈企て〉、その達成を目ざし、現在から未来へ生きる。その人は、最終的には「英雄的な〈死〉」を自分のものにできるだろう。ハイデガーは、こうして「私」に固有の死が可能だとした。物事を計画的に完遂する優等生的ともみえるこの思考は、「民族共同体」を掲げ、ユダヤ人を「故郷をもたない不気味なもの」とし殲滅しようとするナチズムに結びついたのだった。

第二次世界大戦で、科学技術に結びついた人間の思考は大量の死を生産した。多くの人が人間的な生を奪われた。著者によれば、ハイデガーは、人間の存在が「人間的なもの」にとどまらないということの「発見」から思考を始めた哲学者であった。西洋的な普遍や真理を問題としない、象牙の塔ではない、時代に応じた哲学のはじまりである。人間の条件が「人間的なもの」でないとはおぞましい。しかし、それはそのまま、今を生きる私たちの存在の条件だ。著者はそれを、臓器移植や脳死の問題が「人間」という概念の変更を思考に要請するという事実によって説明している。

ハイデガーの哲学を学び、しかしまったく別の方向へ向かったエマニュエル・レヴィナスという哲学者がいる。彼にとって、凡庸な日常は肯定すべき自由の可能性にほかならない。その主体は、無の恐怖に主体性を失いそうになっても、ただその闇のなかでじっと堪えて目をひらき、「夜の無名性のなかに溶解」する。ユダヤ人レヴィナスの、長年にわたる捕虜収容所での、主体性を奪われ人称性を失い、「自分で存在する力を失って、非情な〈ある〉の遍在に呑みこまれる状況」をすごした夜の経験が、主体性なき主体がただそこに〈ある〉という思想を生んだ。非人称化した〈ある〉の「不眠」とかろうじて主体性を守る「眠り」とが渦をまき、命が繋がれる。無に充たされた夜闇への想像力が必要だと感じたならば、著者の『夜の鼓動にふれる』(ちくま文庫、2015年)という本が手がかりとなるかもしれない。

固有性を求めて世界の上位におどりだそうと企てるのではなく、他と区別されない「マス」となり、「デモ(民衆)」であることを受け入れる肯定の思想が示される。著者は、一体になるのとはまったく別のありかたで「個」が「共」でありうるその可能性を、哲学者ジャン゠リュック・ナンシーの「共生起」としての「分割゠分かち合い(分有)」の思想とともに、つぎのように描きだす。

「数であることを拒まない。砂粒のように凡庸であることを拒まない。しかしその砂粒が七彩に輝くこともある。それは賑やかに散乱するこの砂粒が、磁石をあてた鉄粉のようにはしたなく励起して『本来性』をかたどる文様を描き出してしまうときではなく、いかなる一体性をも形成せず、無規定な『分割』の編み目がそれぞれに特異な接触として生起として、多彩な光を散乱させるときである。」

本書を渦まく著者の語りと文体──ジョルジュ・バタイユの内むきに渦まきながら外へと開こうとする『内的体験』さながらの文体──は、20世紀の哲学者たちの死をめぐる思考のそれぞれが「特異な接触として生起」するさまをドラマチックに浮かびあがらせてゆく。読みながら、人間らしくあるとはどういうことなのだろう、と改めて考えさせられる。

外国語で書かれた哲学の本には、外国文学の本と同様に、素晴らしい日本語訳がたくさんある。躓〔つまず〕いた固有名詞が道しるべにもなるだろう。手にとって、ひらく。不可解をそのまま受け入れて、自由気ままに読むともなく読む。わからない。それでもふと、そこに何かが〈ある〉のがわかることもある。だから読書はおもしろい。

*本文中の鍵括弧内の引用はすべて本書からのものです。

総合教育研究部 講師 後藤 はるか

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