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総長メッセージ

建学の理念ー「人間」形成の学苑ー

学校法人駒澤大学 総長:永井 政之

学校法人駒澤大学 総長:永井 政之文禄元年(1592)、神田台(後の駿河台)の吉祥寺に創建された「旃檀林(せんだんりん)」を淵源とする学校法人駒澤大学は、『寄附行為』第3条に「この法人は、教育基本法、学校教育法及び私立学校法に基づき学校を設置し、仏教の教義並びに曹洞宗立宗の精神に則り、学校教育を行うことを目的とする。」と、「建学の理念」を規定しています。

それは「一仏両祖(釈尊(しゃくそん)、高祖道元禅師(こうそどうげんぜんじ)、太祖瑩山禅師(たいそけいざんぜんじ))」の教えを基本とし、高度な知識を持つとともに、その知識を社会に還元しうるような人間の形成を目指した教育を行うことを意味します。

より具体的に言うならば、釈尊が説かれた「縁起の道理」を理解する「智慧」と、その実践である「慈悲(いつくしみといたわり)」を我がものとし、もってあらゆる存在に接することができる人材を養成することとなります。

「智慧と慈悲」を一身に具えた人材の養成は、高等教育の中で、あるいは学園生活の中で、選び取られたそれぞれの「道」において、専門性をより高めるための努力を通じて達成されます。

ひるがえってみたとき、このことは道元禅師の主張された「只管打坐(しかんたざ)」の教えでもあります。道元禅師は「坐禅」を「仏陀から正しく伝わった行」と位置づけられるとともに、あらゆる行為・生き方が「坐禅」を基本として営まれなくてはならないと教えられました。
のち瑩山禅師は「坐禅」によって後継者を育成するとともに、衆生済度(しゅじょうさいど)を眼目として社会の変革や人々の願いに柔軟に対応され、それが現在の曹洞宗教団の基となりました。

このような「一仏両祖」の教えは、「智慧」をみがくとともに、自己とありとあらゆる他者とのつながりを大切にし、「慈悲の心」を忘れることなく、常に互いを導き高め合うための「たゆまぬ努力」をもってこそ実現されます。

ところで一仏両祖の教えに基づく「建学の理念」を簡潔に表現したものとして、かねてより「行学一如(ぎょうがくいちにょ)」や「信誠敬愛(しんせいけいあい)」のことばが用いられてきました。それは卒業生をはじめ関係者のよく知るところです。
「行学一如」の言葉自体は、当面、中国や日本の文献にその典拠を見いだせず、近代になっての造語と思われます。また時に歴史的要請に基づく解釈がなされたことも否定できません。

しかしいま、「行学」を「行仏道(ぎょうぶつどう)」(仏陀の教えを実践する)、「学仏道(がくぶつどう)」(仏陀の教えを学ぶ)ととらえると、それは仏陀の「自洲(じしゅう)(自灯明)、法洲(ほうしゅう)(法灯明)」、菩提達磨の「理入と行入」、道元禅師の「身心学道(しんじんがくどう)」や「行解相応(ぎょうげそうおう)」の立場を継承したものであることに気づきます。

「一如」は言うまでもなく「一体」であり、また「真実」を意味します。
「建学の理念」に基づく「行学一如」は、学びとった「智慧」を「慈悲」として社会の中で具体的かつ積極的に実践することを通して、人生の意味を見出そうとすることにほかなりません。

またそれは、「校歌」(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)にも謳われる「信誠敬愛」と言いかえることもできます。校歌は大正14年(1925)の「大学令」発布に基づき、それまでの曹洞宗大学林から「駒澤大学」へと昇格した後の昭和5年(1930)に制定されたと言われます。

この四字熟語は、当時の忽滑谷快天(ぬかりやかいてん)学長が、難解と思われがちな仏教の言葉を使用せずに「建学の理念」を表現し、そのような工夫をとおして「大学」へ昇格することの社会的意義を鮮明にしようとした結果と思われます。ここでも歴史的背景を考慮する必要がありますが、現代における意義を述べるなら次のようになります。

「信」は一仏両祖の「教え」を信じ、また自他の尊厳を信じ認め合って生きること。「誠」は「教え」に基づいて誠実に人生を生きること。「敬」は「教え」はもちろん、あらゆる存在を敬い己を慎みつつ生きること。「愛」は常に慈悲の心を忘れずに生きることを意味します。

学校法人駒澤大学は、「建学の理念」のもと、学生の皆さんが、自らの人格の陶冶をはかり、専門の学術を究め、社会性を具えた「人間」として成長することを願って設立された学苑です。私たちは皆さんが所期の目的を達成するための援助を、精一杯行うことをお約束いたします。