ラボ駅伝

駒澤大学で行われている研究を、リレー形式で紹介する連載メディアです。創造的でユニークな研究を通して見える「駒大の魅力」をお伝えします。

学びのタスキをつなぐ 駒澤大学 ラボ駅伝

第4区 文学部 歴史学科 久保田昌希 教授

文書や日記から「戦国時代」を探る

その日記の記述、最初は「家康」と呼び捨て。ある日を境に「家康様」。なぜでしょう?

大河ドラマの人気と相まって、戦国武将ゆかりの地は多くの観光客でにぎわい、時代小説を愛読する人も増えているんだとか。となると、戦国の世をより深く楽しむためにも専門家の意見を参考にしたいところです。そこで今回は、松平氏、今川氏、北条氏の研究がご専門の久保田昌希先生に、史料との接し方や歴史を探る醍醐味についてお話をうかがいました。

歴史のエネルギーにあふれた戦国時代をテーマに歴史のエネルギーにあふれた戦国時代をテーマに

文学部 歴史学科 日本史学専攻 久保田昌希 教授

皆さんは戦国時代というと、武田信玄や上杉謙信、毛利元就などの戦国大名が群雄割拠した時代を思い浮かべるのではないでしょうか。彼らの国盗りの物語はダイナミックで実に面白いのですが、世界的な文脈で眺めると、当時のヨーロッパは大航海時代、黄金の国ジパングを植民地にしようとポルトガル人が来航し、鉄砲やキリスト教が入ってきます。同時に西洋の食べ物や生活品が広まり、日常生活も変わっていきます。天ぷら、カステラ、カボチャ、シャボンなどはポルトガル人が伝えているんですね。こう見てくると、今日的な日本の日常生活の成り立ちは、戦国時代からともいえるわけです。

一方で戦国時代は、地方の時代でもあります。戦国大名がそれぞれの領国を支配し、地方のアイデンティティを打ち出していく。農民や町衆が力を持ち、武士だけでなく領民を統率していくにも、魅力ある人物がリーダーでなければなりません。そんな歴史のエネルギーに満ちあふれた時代について、もっと詳しく知りたい――これが、私が中世から近世へと移行する戦国時代に興味を持った第一の理由です。

なかでも注目したのが徳川家康であり、松平氏でした。家康は松平氏第8代の当主ですが、もともと初代の松平親氏(ちかうじ)は、はじめ徳阿弥といい、上野国(今の群馬県)から遊行僧に身をやつして、愛知県岡崎市の北方、豊田市東南の山奥にある松平郷という所にやってきて、その地の有力者である松平氏の婿養子に迎えられたのです。その後、松平の一族は、十六松平とも十八松平ともいわれ、三河の平野部に進出し、家康の祖父清康の代になってさらに勢力を拡大。そして家康が、岡崎、浜松、駿府へと東遷し、ついには征夷大将軍となり、江戸城を構えた。東海の片田舎の一族がわずか100年の間に大きな力を持つに至った謎を解き明かしたい、そのエネルギーの正体は何か?と考えるようになりました。

またご存じのとおり家康は、竹千代と呼ばれた時代に今川氏の庇護のもとにあり、三河の地は今川氏の勢力下にありました。そこで今川氏と、当時関東を支配していた北条氏とを含め、東海・関東を基盤とした松平、今川、北条氏を中心に、彼らが領国をどのように支配してきたかを探究してきたわけです。

戦国武将の貴重な記録『家忠日記』戦国武将の貴重な記録『家忠日記』

さて、歴史研究に欠かせないのが史料です。これには大きく言語、風俗、伝承などの「精神的遺物」と、遺跡や文献などの「物体的遺物」などがありますが、今回は文献、その中でも日記と文書(もんじょ)について紹介しましょう。

文書が1点1点独立した内容を持っているのに対して、日記は多くの場合、長期にわたって同一の人が記しますので連続性があり、その当時の状況や経過がよく分かります。しかし残念なことに、公家は日記をよく書きますが、戦国時代を含めて武士のものは少ない。そこで注目されるのが、本学図書館が所蔵している『家忠日記』です。

これは、徳川家康に仕えた松平家忠が著わした日記で、天正5(1577)年10月から文禄3(1594)年10月までの18年間が伝わる第一級の史料です。家忠は、弘冶2(1555)年に生まれ、慶長5(1600)年8月に伏見城で戦死しますが、天正3(1575)年の長篠の戦で父の伊忠が戦死後、家を継ぎ、常に家康とともに戦場に赴いた典型的な「三河武士」の一人でした。実に筆マメな男で、城の普請や戦などの非日常的なことから、家族や親類の様子、さまざまな贈答や寄合のこと、天気や食べ物、法事、寺詣、連歌や茶の湯、能の催しなどの日常生活や文化について書きとめています。また、信長・秀吉や有名な武将の記述もあります。

興味深いのが家康への呼称が変化していることです。家忠は家康の義理のいとこで、深溝(ふこうず=現在の愛知県額田郡幸田町)に城を持っていた、松平氏としては傍系の一族ですが、先に述べたように、松平氏は、一族一党という集団的な色彩が強かったため、当初は家康の家臣というより同盟者という感覚、あるいは極端に言えば「親戚のあんちゃん」として気安く接していたのかもしれません。天正12(1584)年11月頃までの記述は、ほとんど「家康」と呼び捨てです。しかし翌年になると「家康」もありますが、「殿様」と敬称をつけて語るようになります。そして天正14(1586)年には、ほとんど「殿様」「家康様」となります。すでに「小牧・長久手の戦い」では戦術的に勝利し、その後の豊臣秀吉との政治的関係を踏まえ、家康が東海地域のトップに立ち、だんだんと出世を果たしていくにつれ、一族の中でも抜きん出た存在として意識されるようになったからでしょう。

『家忠日記』冊4
天正14(1586)年7月19日の一節。この頃には少ないが、「家康」と呼び捨てにしている例。「家康真田表に働き仰せられ候」とあり、家康が信州上田城(真田氏)を攻めるよう命じている。(『家忠日記』冊4)
『家忠日記』冊5
天正14(1586)年9月24日の一節。敬称を付けて語られるようになってきていることが分かる例。家康が浜松城を居城にしていることから、「浜松殿様」と呼んでいる。家康様と呼ぶのと同じだけの敬意を払っていることが分かる。(『家忠日記』冊5)
『家忠日記』冊5
天正14(1586)年10月15日の一節。「家康様」と呼んでいる例。秀吉は10月に入り、家康の上洛を促すため、実母である大政所を人質として家康の元に送り、その直後に家康は上洛している。秀吉から丁重な扱いを受ける家康に対しての敬意がみられる。(『家忠日記』冊5)

※ 以上3枚の画像は転載禁止です。『家忠日記』は、本学図書館WEBサイト「電子貴重書庫」で閲覧ができます(一部端末には対応していません)。

これらはほんの一例です。日記には戦況、兵士の移動した場所などが記されているほか、さきにもいいましたが信長や秀吉に関する記述、そして当時の生活や文化などもうかがえ、読むたびに新しい発見があります。私も大学院のゼミで長年テキストにしており、研究仲間で索引を作ったり、論文集『松平家忠日記と戦国社会』(岩田書院、2011年刊)を上梓しました。

「花押」か「印判」かで文書の性格が分かる「花押」か「印判」かで文書の性格が分かる

文書というのは、誰=A(差出人)が、誰=B(受取人)に対して、その意思を表わすため作成された所産です。紙はもちろんのこと、金属、石、葉に記されたものでも、この内容が含まれていれば文書といえます。

中世武家の文書は、鎌倉幕府が武士や寺社に出したり、多くは裁判関係などで、また室町幕府の文書も内容や対象が限られていましたが、戦国時代に入ると、戦国大名が在地を把握するために、それまではあまり対象とされていなかった町や村に対しても出すようになったことから、格段に数が増えます。武田氏や北条氏は数千点、今川氏は1,000点もの文書が存在するので、自分のテーマに関連する文書をいかに探し出し、読み解いていくかが重要になります。

文書には、差出人による「花押(かおう)」と呼ばれるサインが書かれていたり、また「印判(いんぱん)」が捺されています。印判は印章ともいいます。いわゆるハンコですね。黒印と朱印があって、朱印のほうが丁寧です。

花押が記された近世文書の一例
花押が記された近世文書の一例(氏名の下部分)。これは江戸時代のもの。印判も一緒に押されている。

花押は、自分の名前を崩したり、伊達政宗であれば鳥のセキレイの形をかたどったりと、それぞれが工夫を凝らし、独特の形のデザインとなっています。織田信長などは人生の中で花押を大きく8回も変えたとされていますが、中でも有名なのは、「麟」の花押でしょう。これは「麒」と合わせて麒麟ですが、麒麟は中国の想像上の獣で、良い政治が行われているときに出現するとされています。つまり「私の手で仁ある政治を行います」という信長の所信表明とも解釈できるわけです。また、敵対している相手の花押を真似ている例もあります。これは、敵の地位を奪い、倒すという呪詛的な意味があるのでは、といわれています。

次に「印判」ですが、これは特に刻まれた形象や文字(印文)が面白い。例えば竜や虎や獅子、馬が刻まれていたり、全体が壺や香炉の形をしているなど多様性に富んでいます。文字では、信長の「天下布武」が有名ですね。

北条氏が用いた虎の印判
北条氏が用いた虎の印判。「禄寿応穏」の4文字が刻まれている。「禄(財産)と寿(長生き)とまさに穏やかなるべし」と読み、「幸福な生涯」の意。方形の上には眠った虎が刻まれている。いわば戦国大名としての政治方針を体現させている。(大場代官屋敷保存会所蔵 写真提供:世田谷区立郷土資料館)

さて、花押と印判の講釈はこのくらいにしますが、花押は本人がわざわざ書くので手間がかかるのに対して、印判は本人でなくとも書記が捺せばよいわけです。したがって、文書を受け取る側への対応としては、花押が書かれていれば丁重、印判ならば少し軽んじている、と考えることができます。つまり花押の場合には、相手の大名に対して同盟を依頼するとか、自分の家臣にこの土地を与えるなど、おろそかにできない内容のものになります。一方、例えば年貢を納めよ、町に対して市を立てよ、などという内容なら印判。中には、「本当は花押を記したいのだけれど、手が傷ついているから印判で申し訳ない」というような言い訳を記したものも...。

このように、文書にみえるのが花押か印判かというのも、文書を考える際の重要なポイントの一つです。これは「偽文書」を見分けるときにも大事なことです。

社会構造や契約意識の変化も文書でたどれる社会構造や契約意識の変化も文書でたどれる

文書の中には、庶民が書いたもの、また、取り交わしているものもあります。「公文書」に対して「私文書」と呼ばれますが、この中で私が着目しているのが、土地の売買にあたっての証文である「売券(ばいけん)」です。土地を売る人が買う人に対して差し出す証文で、①売る理由、②売る土地、③対価、④売渡し日、⑤保証人、などが記載されています。特に中世に多くみられ、近世には質入れの土地に対して作成されるケースが多いといえます。

ところで鎌倉時代の元寇以後、さらに室町時代には、幕府に加え戦国大名も徳政令をしばしば出しました。徳政令というのは、借金の帳消しや、売った土地を取り戻すことができる法令です。しかし土地を買ったのに、徳政令によって破棄されてしまってはたいへんです。そこで、もしも徳政令が出されてもこの契約はチャラになりませんよという、土地を守るための「徳政担保文言」が中世の売券には記載されています。通説では、徳政令は近世には出されていないといわれていますが、江戸時代後半の質地証文の中にもこの徳政担保文言が書かれている場合があるんですね。これは単なる慣例なのでしょうか。

さらに興味深いことに、中世の売券は、近畿地方から東海地方の岡崎や浜松地域までには多くみられますが、そこから東の関東方面では減少します。つまり西の方は土地売買に際して証文を作成する契約的色彩が強い社会であったのに対して、東の方は証文を作成しない社会だったのではないか、という予測が立ちます。また、村の組織のあり方も歴史的に異なっていたという指摘もあります。このように、文書を仔細に検討していくことで、日本のさまざまな社会構造や契約意識の変化もたどっていけるというわけです。史料をしっかりと読み、大きな筋道をたてて考えることが、歴史研究においていかに大切かが分かるでしょう。

昨今、空前の戦国武将ブームです。歴史ドラマも盛り上がっていますし、刀剣女子もあらわれましたね。ハンサムな俳優さんたちの演じる智将に興味を持ったり、戦国時代をテーマにしたゲームでもいい、何がきっかけでもかまいません。歴史のおもしろさに気づいたら、ぜひ自分なりの視点で、文書や日記などの歴史史料にも目を向けてください。教科書では学べなかった、遠い過去の時代や人々の暮らしが、きっと生き生きと感じられるはずです。

久保田先生
駒澤大学副学長としての執務の傍ら、研究にも情熱を注ぐ久保田先生。

Profile

久保田昌希教授
1949年、東京都生まれ。1972年、駒澤大学文学部卒業。1980年、駒澤大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。1991年、駒澤大学文学部助教授。1997年、文学部教授。2013年より副学長。文学博士。主な著書に『戦国大名今川氏と領国支配』(吉川弘文館)、『山北町史』通史編(共著)など。

戦略が勝敗を分かつのは、戦国時代もスポーツも同じ。
ということで、次回は「サッカーにおけるゲーム分析の研究」にタスキを繋ぎます!

次回は 第5区 総合教育研究部 スポーツ・健康科学部門 岩本哲也講師

駒澤大学ラボ駅伝とは・・・
「ラボ」はラボラトリー(laboratory)の略で、研究室という意味を持ちます。駒澤大学で行われている研究を駅伝競走になぞらえ、リレー形式で紹介する連載メディアです。創造的でユニークな研究を通して見える「駒大の魅力」をお伝えします。

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