歴史ある寺に赴いて国宝級の仏像を前にすると、誰しも心癒されます。それは、笑みの中に厳しさを感じるからか。戦乱の世を生き延びた生命力への憧れなのか。それとも、高い芸術性に魅せられるからなのか。これらの答えを見つける糸口として、仏教美術史の第一人者・村松哲文先生に、仏像鑑賞のポイントを教えていただきましょう。
教科書の記述とは別の説が真実かもしれない!?
私が仏教美術にハマった理由ですか? キッカケは、家族旅行です。実は両親ともども古都巡りが趣味で、幼い頃から京都や奈良へ連れて行かれまして。最初は、しぶしぶですよ。子どもにしたら、古寺なんて単に薄暗い場所。奈良では鹿に追っかけられて散々な目にあったし...。でも、学校で歴史を学ぶようになると、旅行先で目にしたことが教科書で展開されるでしょ。すると、いにしえの出来事が実感として理解できる。そうなると、家族旅行はフィールドワークです。仏像や仏画の専門書を自発的にひもとくようになり、中学生になる頃には立派なオタクとなりました。修学旅行では、奈良の大仏を前に「造立を命じたのは聖武天皇」「身長はお釈迦様の約10倍」と一人でうんちくを傾けて...。周囲の友だちは皆、引いてましたね(笑)。
大学で専攻したのは仏教文化圏の美術史。主に中国の仏像・仏画について研究しました。卒論の題材は、雲岡石窟(うんこうせっくつ)。中国山西省の武周山にある、世界遺産にも登録された仏教遺跡にスポットをあてました。ここで着目したのは、石像が西方様式だったこと。ギリシャ様式の唐草文様まであるのだから驚きです。卒論を書くにあたっては、大学3年の夏休みを利用して現地へ向かいました。岩壁に大小様々な石仏が約1kmにわたって並び、大きいもので17mの高さ。顔を上げたまま立ち尽くしたことを覚えています。
研究熱がさめないまま、大学院に進学。同時に高校の非常勤教員になり、世界史を教えました。そこで、あることに気づきます。それは、教科書の記述がすべて真実とは限らないということ。例えば「日本の飛鳥時代の仏像は、中国南北朝時代・北魏の仏像の影響を受けている」と記されている。しかし先行研究を確認していると、南朝の影響なのではと思えたのです。実際、南朝説を唱える論文もありました。発掘が進むうち、北魏の仏像の特徴とされる、パッチリとした目やにっこりと笑った顔、衣の様式と同じものが南朝からも見つかってきました、ならば時差を考えたら、南朝の影響は無視できないはずです。つまり教科書に載っているのは、その時点で主流の仮説であって、鵜呑みにしてはいけないということです。「だったら、自身で真実を突き止めよう」。このモチベーションを持ち続けているからこそ、今もこうして研究者を続けていられるのだと思います。
なぜ中国に仰向けの涅槃像が存在するのか?
現在取り組んでいるテーマは、6〜7世紀に造られた中国の涅槃像(ねはんぞう)です。涅槃像とは、亡くなる際に弟子たちに教えを説いた釈迦の姿を表した仏像のこと。その多くが右手で頭を支え、ゆったりと横たわります。タイのワット・ポーの像が特に有名ですね。
ここで留意すべきは、「涅槃=死」ではないということ。そもそも涅槃とは、サンスクリット語のニルバーナを漢字の音を借りて表現したもの。煩悩の炎が消えて安らぎに帰する「解脱」、そして釈迦の「深い悟り」を意味します。それを象徴的に表現するので、微笑みをたたえる像も存在するわけです。
ところがです。次の写真をご覧ください。これは北魏時代、雲岡石窟の涅槃像です。目を閉じて、仰向けに寝ていますね。あきらかに死を表わしている。これは何を意味するのか...。私は、当時の中国の仏教家が涅槃の意味を理解してなかったと推測しています。おそらく経典を中国語に翻訳することに注力し、字面をなぞっただけなんでしょう。ところが6世紀中頃になると、右脇を下にした涅槃仏が中国にも登場します。写真は中唐の敦煌石窟第158窟の涅槃像。南北朝が統一され、社会が安定した時期。そんな時勢の中、中国の仏教家たちは経典の言葉を深く読み解くようになり、涅槃像も本来あるべき姿に変えた...。そう捉えています。この仮説を立証すべく、今まさに中国の仏像と対峙し、漢字文献と首っ引きの日々を過ごしているところです。こう言うと、中国ばかりに目を向けていると思われがちですが、さにあらず。というのも、仏教文化はインドからシルクロードや海路を経由して中国にわたり、さらに20〜30年のタイムラグがあって朝鮮半島から日本に伝わっています。ですから、本家のインドや周辺国、そして日本にも視野を広げなければなりません。日本の仏像や仏画の歴史を遡ることで、中国の当時の仏教美術を探っていくことができるんです。
仏像鑑賞とは、仏像に鑑賞されることでもある?
ここ何年か、市民講座で仏像鑑賞について講義する機会をいただいています。その際、参加者からこんな質問を受けます。「ビギナーが仏像鑑賞を極めるコツは?」。その問いに対し、2つのポイントを提示しています。
まず、ひとつめ。「好きなパーツをひとつ見つけて、そこだけを見続けよう」。そうすることで、時代の変化、仏師※の特徴が浮き彫りになります。例えば、目に着目した研究者の図版を時系列で並べてみると...。飛鳥、白鳳、天平時代までの仏像の目は西洋人のようにパッチリしていますが、平安、鎌倉時代になると日本人らしく徐々に細くなるのがわかります。 私自身がこだわっているパーツは、「胸飾り」です。今風に言えば、ネックレス・フェチ(笑)。飛鳥時代の胸飾りはどれも平らで、形も単純です。それが天平時代になると、宝石や鎖類は立体的かつ精緻に表現されます。これは中国の仏像の胸飾りの変遷と同じなのです。日本の古代の仏像が、いつも中国の影響を受けながら制作されていたことがわかります。さらに、天平時代の仏師が写実主義に傾倒していたことも理解できます。
また、一定のパーツに対し造詣が深くなると、仏像の真贋がわかるようになります。実はこの能力が、仏像研究ではとても重要な要素。なぜなら、本物を知らないと仏教文化を正しく捉えることができないからです。例えば、平安時代の菩薩とうたっているのに鎌倉様式の胸飾りが施されていたら...。これは完全にダウトです。ただし贋作とはいえ、鎌倉時代の作品なので文化的価値は高いのですが...。ちなみにゼミ生に「平安時代に建立された浄瑠璃寺の九体仏の中に、鎌倉時代の仏像が一体だけあるから、探してごらん」という課題を出すと、皆正解しますね。そう、多少トレーニングすれば、在学中に審美眼は養われるんです。
さて、ふたつめのポイント...。「一体の仏像に絞ってとことん追っかけよう」。できれば1回の訪問につき、1時間は対峙していただきたいと思います。
例えばお目当ての仏像が、法隆寺金堂の「中の間」の釈迦三尊像だとしましょう。団体の参拝客のごとく、即ご対面は感心しません。まずは、しばし御堂の入り口付近に立ち、建物の空間と仏像の配置を堪能しましょう。そして飛鳥時代の情景を五感で感じ取る。それが済んだらゆっくりと三尊像に近づき、お好みのパーツを凝視。さらに仏像全体をくまなくチェック。そして、最後にお顔をじっくり拝見する...。これの繰り返しです。こうして鑑賞しているうちに、きっと仏像たちの誕生物語を知りたくなるはず。好きなアーティストの楽曲だけでなく、その人物の生い立ちや信条まで熟知するという音楽ファンと同じ心理です。
私の場合、この所作を毎回繰り返していると、不思議なことに仏像が語りかけてきます。時の為政者の振る舞い、都の活気、大陸文化の影響、仏師と発注者のやりとり...。古代へタイムスリップしたがごとく妄想が膨らみ、対話は延々と続きます。このとき本人は頭の中で語っているつもりなんですが、どうやらブツブツ独り言をつぶやいているようで...。端からみれば、ヤバいおじさんですよね。奈良へのゼミ旅行の帰路で、「先生、悩み事があるんですか?」と心配してくれる学生もいました(笑)。
1400年もの悠久の時を生き延びた仏像たち。私たちは仏像鑑賞をしているつもりでも、ひょっとすると、我々人間が彼らに見られているのかもしれません。「鎌倉時代の人間は心をこめて見つめてくれたのに、平成の人間は素通りしているだけだ」、なんて思っているかもしれない。ですから、先ほど申し上げたヒントをもとに、ぜひ自分なりの視点で仏像と友だちになってください。見るたびに新たな発見があり、インスピレーションが刺激されるはずですよ。
※仏師(ぶっし)=日本における仏像等の制作を担当する人の名称。独自の制作技術を持った専門集団が存在していた。
- 村松哲文教授
- 1967年東京都生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。早稲田大学会津八一記念博物館を経て、駒澤大学仏教学部へ。その他、日経カルチャー、東急セミナーBE、早稲田大学エクステンションセンターの講師などを務める。専攻は仏教美術史。主な著書に『かわいい、キレイ、かっこいい たのしい仏像のみかた』(日本文芸社)、『すぐわかる東洋の美術』(東京美術)など。
仏像には、薬師如来という薬壺を持つ仏様も...。
ということで、次回は「化学の視点を医薬品に活かす研究」にタスキを繋ぎます!
- 駒澤大学ラボ駅伝とは・・・
- 「ラボ」はラボラトリー(laboratory)の略で、研究室という意味を持ちます。駒澤大学で行われている研究を駅伝競走になぞらえ、リレー形式で紹介する連載メディアです。創造的でユニークな研究を通して見える「駒大の魅力」をお伝えします。