系譜の宗教であり、問答の宗教である中国の禅宗 その語録の思想史的解読に取り組む
総合教育研究部 外国語第二部門(中国語) 小川 隆 教授
禅の問答が難解で不可解なのはナゼなのか?学生たちに中国語を教える一方、中国禅宗史研究の第一人者として、問答を記録した禅の語録の思想史的解読に取り組んでいるのが小川教授。
語学的な理解と思想史的な理解がカチッとかみ合ったときに味わう醍醐味に魅せられている。
坐禅は禅宗だけのものではない では禅の本当の特徴とは?
禅、あるいは禅宗という言葉を国語辞典や仏教辞典で引くと、「坐禅によって悟りを開くことをめざす宗教」などと書かれています。でも、これは禅宗の特徴とは言えません。坐禅が禅宗にとって重要でないという意味ではなく、そもそも坐禅は原始仏教の時代から仏教全体の共通の修行であり、なおかつ仏教独自のものですらないからです。
ならば禅宗の本当の特徴といえるものは何か?それは次の3つです。
1つは「系譜の宗教」であるということ。禅宗には開祖や教祖はいません。聖典と呼ばれるものもありません。代々、悟った人から悟った人の、心から心に、直に「法」そのものが伝えられてきました。禅の歴代の祖師というのは、いわば、「仏法」という栄光のタスキをリレーしてきた駅伝のランナーたちなのです。
禅はこうして繋いできた系譜の総体を信仰し、かつ自らもその1人となろうとする宗教と言えます。
2つめは「問答の宗教」であるということ。教義とか聖典というものがないかわりに、問答によって修行者自身に悟らせるのが禅宗です。
3つめは「清規」といって、インド以来の戒律とは別に、中国でできた、禅宗独自の集団的な修行生活の規範を持っていることです。
禅問答がチンプンカンプンといわれるわけは?
私の研究は、2つめの特徴として述べた問答の記録、つまり中国の禅の語録を学問的に解読することです。
禅の問答は難解といわれますが、その背景の一つに語学的な問題があります。問答は口頭で行われ、それを記録したものが語録ですから、口語文として書かれています。禅が発展したのは中国の唐や宋の時代で、それぞれの時代で話し言葉も違えば、伝統的な文語文とは異なる語彙や文法もたくさん出てきます。ですから、それぞれの時代の話し言葉の理解が必須なのです。
2番目の難しさは宗教的問題です。禅の問答は師が弟子に正解を教えるものではなく、質問者である弟子自身に答えを発見させるよう、師が問いを投げかえすしかけになっています。そこで弟子が答えに気づかないと、非常にトンチンカンなものに見えてしまうのです。
外在の知識ではなく自ら発見したものこそ真実
禅には「従門入者不是家珍(門より入る者は家珍にあらず)」という言葉があります。門を通って外から入ってきたものは、わが家の家宝ではない。外在の知識は真実ではありえず、わが身の上に自ら発見したもののみが真実たりうる、ということです。
ですから老師は絶対に正解を言わない。ナゾかけのような言葉で弟子に気づいてもらうことをめざしているわけです。
さらに、問答の前提になっている禅の思想を理解することも必要です。ところが前提となる思想は、この問答から読み取るしかない。そこが実に難しいのです。しかし根気よく研究を続けていると、何かの機会に「あっ、こういうことなのか!」とわかるときがあります。微視的な語学的理解と巨視的な思想史的理解がカチッとかみ合うのです。すると、一つの問答だけでなく、複数の問答が関連づけられて一度にわかったりします。
ハッとわかった瞬間は、固く閉じたツボミのようだった脳みそが、一気にパーッと満開になるような感じがします。そんなとき、研究の醍醐味を味わいます。
- 総合教育研究部 外国語第二部門(中国語) 小川 隆 教授
- 1961年生。岡山出身。83年駒澤大学仏教学部禅学科卒業、90年駒澤大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。91年同大学講師、助教授を経て2005年教授。09年「語録の思想史‐中国禅宗文献の研究」で博士(文学、東京大学)。著書多数。
※ 本インタビューは『Link Vol.7』(2017年5月発行)に掲載しています。掲載内容は発行当時のものです。