ゲームで世界が驚くことを仕掛け続けます
株式会社スクウェア・エニックス 執行役員
橋本 真司 さん
- 株式会社スクウェア・エニックス 執行役員
橋本 真司 さん - 1958年福岡生まれ。1983年経済学部卒業。(株)スクウェア・エニックス執行役員。ゲームプロデューサーとして『ファイナルファンタジー』シリーズや『キングダムハーツ』シリーズなど、数々の人気タイトルを世に送り出し、業界を牽引している。
テレビゲームの黎明期から現在まで、常に最先端で活躍し続ける橋本さんに、学生時代の思い出や成功の極意を伺いました。
どんな学生生活を送りましたか?
サークルはSF・アニメ業界では有名な池田憲章さんが立ち上げたSF研究会(1975 〜 88年度にかけて活動)に入りました。そこで紹介されたアルバイトが、徳間書店の月刊アニメージュ編集部。入学前から同人誌を作っていたので、趣味でお金がもらえるならと思い、働くようになりました。
大学に入学して、1年生の6月には名刺を持って取材に出ていましたね。担当させてもらったのはガンダム。ちょうど第1作の放送が始まった頃で、世間は大熱狂。僕も大好きでしたから、堂々と制作現場に行けるのが嬉しかったです。ガンダム総監督の富野由悠季 さんにもインタビューし、担当したムック本シリーズが100万部超えの大ベストセラーになったことも。人脈ができて、テレビアニメや商品化の企画書もたくさん書きました。ガンダムのプラモデル「ガンプラ」の企画にも参加させていただき、すごく売れたんですがテレビCMの第一弾はターゲット年齢が低めに設定されていたので、第二弾以降は、CM演出まで関わらせてもらいました。こんな話をすると学業はそっちのけだったと思われるかもしれませんが、留年はしていません。単位を落とさないようにちゃんと授業に出て、仕事は夜から。石井啓雄(ひろお)(本学名誉教授/専門は経済政策)ゼミで勉強して、喫茶パオ(駒沢キャンパスにあった軽食店。2015年2月16日で営業を終了。)でミートスパも食べていました(笑)。
ゲーム業界に入ったきっかけは?
卒業後、(株)バンダイに就職しました。ガンプラの経験からプラモデルの仕事ができると思い込んでいたのに、 配属されたのは家庭用ゲーム機とソフ トを販売する部署でした。「最初から行きたい部署に行けるもんじゃないんだよ」なんて言われてね。でもその頃からアニメをゲームにする時代がくるかもしれないという噂はあって、研修のつもりで営業を頑張りました。
入社後すぐに任天堂からあの「ファミコン」が発売され、以降はファミコンソフトを扱うように。このとき宣伝担当した『キン肉マン マッスルタッグマッチ』も100万本を超えるヒット作です。33歳で独立して起業を経験したのちに、スクウェア(現スクウェア・エニックス)と合流して、『ファイナルファンタジーⅦ』以降のシリーズや『キングダム ハーツ』などのプロデュースに至ります。
学生にメッセージをお願いします。
「自分が夢中になれて、人に自慢できる何かを一つ持つこと」です。僕が今やっていることは、基本的に18歳の頃と変わらないんですよ。3万円かけて作った同人誌を200人に売るのが、数十億円かけて開発したゲームを世界で売ることに変わっただけ。エンタメのコンテンツを作ってプロデュースするのが大好きなんです。自分が仕掛けたことで世界が驚いたときは、プロデューサー冥利につきますね。
大切なのは、好きなものを見つけるだけでなく、それがどう仕事に結びつくかを考えること。時代の流れを掴む力を持つことです。特化した知識は武器になり、そこから人脈も広がります。そのためには人を選ばずに会話できるコミュニケーション能力が不可欠です。 僕自身、父が転勤族で転校ばかりでしたから、小さいときから輪に溶け込む方法は考えてきました。
今はスマホ1台あれば情報発信できて、瞬時にユーザーの反応まで知ることができる時代。ビジネスチャンスがたくさん転がっていて今の学生が羨ましいです。僕のときはパソコンもなかったですからね。
何かに打ち込んでいると、20~30代で一度起業のチャンスが巡ってきます。僕は独立を経験して、組織のありがたみを痛感しました。サラリーマンのときは給料日が待ち遠しかったのに、社長になるとそのお金を自分で集めてこなくてはならない。いかに企業の暖簾や看板に助けられながら仕事をしてきたかを気付かされました。大変でしたが、起業していた4年間一度も赤字を出さずに仕事を全うしたことは誇りですね。
若いうちは、恐れずチャレンジして ほしいと思います。
※ 本インタビューは『学園通信318号』(2015年7月発行)に掲載しています。掲載内容は発行当時のものです。