メコン便り(中) |
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佐藤哲夫
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6月2日から15日まで、北部ラオスに行ってきました。同行者はコンケン大学開発マネイジメント専攻で学ぶPhDキャンディデイトの3人。博士課程の「大学院生」ですが、実は2人は大学の教員で、一人はラオス国立大学の地理学科から留学している先生、もう一人はコンケン大学ノンカイ分校の経済学の先生です。タイの場合も論文博士という制度はないので、大学教員であっても学位を取るには、コースワークを修了しなければなりません。今回は、彼らの指導教員であるセクサン先生の代講(?)として、論文作成のためのフィールドワークの指導をかねたラオス出張ということになりました。 「出張」の目的からははずれますが、地理学科の学生の皆さんの関心を引く話題を一つあげておきましょう。それは、今回のラオス入国の際に鉄道を利用したので、その情報です。タイとラオスを結ぶメコン川の橋は現在2か所にかかっています。最初にできたタイのノンカイとラオスのビエンチャンを結ぶ橋は1994年に完成したもので、2009年からタイ国鉄が国際列車の運行を開始して鉄道道路併用橋になりました。軌道は橋の中央に敷かれていて、列車が通る時には自動車は通行止めになりますが、1日2本の運転ですので、あまり大きな障害にはなっていないようです。越境する乗客は、タイ側はノンカイ駅のプラットホーム、ラオス側は唯一の鉄道駅であるタナレーン駅のプラットホームにあるイミグレーションで手続きします。ノンカイ=タナレーン間は、2両連結のディーゼル車で12分間の旅で、二等30バーツ、三等20バーツ。60円足らずで海外に行ける(?)といえば安いようですが、タナレーンの駅の周りにはまだ何もないので、ビエンチャン市内まで行くのに300バーツ近くかかって、結局、高くつきます。そういうわけで、地元の人の利用は少なく、同行のラオス人の先生も、週末には必ずビエンチャンに繰り出していたというノンカイ分校の先生も、「鉄道は初めてだ」と楽しそうでした。乗客の3分の2は外国人観光客で、西洋人バックパッカーと東洋人の鉄道ファン。鉄道ファンのエネルギーはすごいですね。一昨年、地域文化演習の学生さんたちとチャオプラヤデルタ巡検をした時、メークロン駅(市場の中を列車がかき分けて進むようなところ)に寄りましたが、そこで一日を費やして列車が来るのを待ち構えている日本人鉄道ファンのツアーに行き会い、その執念に圧倒されたことを思い出しました。 |
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余談が長くなりました。まずはビエンチャンでラオス国立大学の地理学科と、日本の国土地理院に相当するNational Geographic Department (欧文正式名称はフランス語のService Geographic National)を訪れ、NGDで調査地域の地形図を入手しました。ラオスの地形図の基本図は10万分の1ですが、主曲線は20m間隔で記入されており、かなり細かく描かれています。フランス語で表記された1982年作成のシリーズで、在庫がなくなったものは、複写を売ってくれます。もちろんデジタル地図も販売されていて、1999年修正ですが、フィールドに携帯するには紙地図のほうが便利ですし、何と言っても紙地図は1枚7000キップ(約80円)ですから、限られた予算で広い範囲をカバーできます。図郭の右上にはEN SECRET(マル秘)と記されていますが、今は関係ないようで、外国人でもパスポートを示して買うことができます。なお一部地域については、アメリカとタイの協力で作成された5万分の1地形図があり、こちらは英語とラオス語の併記。また主要都市については1万分の1の地図も出されています。海のないラオスで、どこを基準に海抜を測るのか興味があったので、測量原点の位置も教えてもらいましたが、残念ながら行く時間はありませんでした。次回にラオスを訪れる時の楽しみにすることにします。 |
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ビエンチャンからルアンパバーンに向かう途中、ラオス国立大の先生のフィールドであるヴァンヴィエンで調査をしました。日本では知る人ぞ知るといった観光地で、行ってみるまでこんなに観光客がいるとは思いませんでした。と言っても、バックパッカーが多く、大資本の開発が入っているわけではありませんから素朴で、30年前のサムイをほうふつとさせました。カルストの山々がつくる地形と、ソン川でのウォーターアクティビテイーが観光の目玉になっています。博士論文のテーマは「Carrying Capacity of Tourism」だそうで、まずはゴミ処理場に行ってみることにしました。川が重要な観光資源であるだけに、下水の処理も気になりましたが、さすがにそれは中央政府の観光庁がアジア開銀の融資を受けて、処理事業を進めているようです。観光地理というのは観光を楽しんでいるだけでは研究になりません。 |
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ルアンパバーンまで向かうバスは、山の中を九十九折に進んでいきます。はるか向こうに見えていた道路を、いつの間にか走っていたりして、ネパールの山道を思い出しました。森林の耕地化はビエンチャン平野に近いところから確実に進んでいるようで、森林を伐開してゴムを植え付けたばかりの土地が広く見られ、急速に拡大しているとのことでした。またトウモロコシなどの商品作物の栽培も普及してきていました。しかし、ビエンチャンとルアンパバーンを結ぶ幹線国道沿いでも、少し遠隔地になると、写真のような伝統的な焼畑耕作地が広がっています。 |
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ルアンパバーンからは舟でメコン川を遡ることにしました。前回報告した通り、メコン川は岩礁や瀬が多く、小さな舟でも航行が難しそうです。この辺りまでくると、川幅は一番狭いところで200m足らずになってしまい、9月末のピークには水位が今の時期より6mも高くなるような場所もありました。両岸ともほとんどが山腹の迫る峡谷で、川と並行する道路はありません。たまに最近開かれたと思われる、車両通行の可能な道路が見られますが、ところどころ路肩が崩れて、赤土が滑り落ちてきています。道路の通っているところでは、トウモロコシを作付している焼畑が見られました。川に面した集落からは、奥の山間部に向かう道が続いているようで、その道が自動車の通れるような大きな道路の場合は、交通の結節点として多くの人が乗り降りします。舟が岸に着くと、小さな子供たちが集まってきて、乗り降りする人の荷物を1個1000キップのお駄賃で運んでくれます。生きたままの鶏や、獲ったばかりの魚も積み下ろしされています。データを集計していないので、はっきりとは言えませんが、川沿いの集落は岩礁のある場所に立地していることが多いようで、舟の通行の少ない対岸側の岩陰や入り江には、たくさんの網が仕掛けられています。集落の背後の丘陵地には常畑が開かれており、さらに奥の山腹には焼畑が見られます。大きな集落だと、川沿いにココヤシやゴムの木が並んでいることもあります。 |
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9時間あまり舟に乗って、パクベンという町に着きました。さらに1日舟で上れば、タイのチェンライ県チェンコンの対岸にあるホアサイの町に行けますが、私たちはここで1泊し、引き返すことにしました。写真中央に写っている黄色のゲストハウスに宿泊したのですが、宿の主人の話によると、2008年8月の大洪水の際には、杭の部分よりも水位が上がり1階食堂の天井まで水に浸かったそうです。今の水面からだと11.4m、平年の最高水位からは8m以上もの高さです。それが、深夜の0時ころから3時間で水位が上昇し、わずか30分で引いてしまったという、過去に例のない水位の変化だったので、地元の人たちは中国のダムの放水が原因だと考えています。この時の洪水は、ビエンチャンや南部のパクセにも大きな被害をもたらし、世界的なニュースになりましたが、中国政府やメコン委員会はダム放水原因説を否定しています。真相はどうであれ、メコン川が国際河川であることを強く印象づける出来事です。そして地域の人々の生活もまた、国際色の溢れるものになっています。パクベンの市場に行ってみると、雑貨類は大部分が中国製で、最近中国から来たというモン族の商人が大きな店を構えて売っていました。野菜類や果物類はタイからの輸入品が多く、地元のものは魚や獣、山菜類が主。周辺の村から出てきた人たちは、朝のうちに持ってきたものを売って、引き上げていきました。 |
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さて、私の在外研究期間はあと1か月足らずとなりました。終了前の7月の初め、イサーン西端にあるルーイ県のダンサイという山間の町を訪れて、ピ−タコンという仮面祭を見る予定です。現在では僻地にあるダンサイですが、16世紀にはタイ(当時はアユタヤ朝)とラオス(当時はランサーン朝)を結ぶ大きな交易路上のボーダータウンとして栄えていました。次回のメコン便りでは、その報告をします。なお、7月3日にはタイの総選挙が予定されています。大きな混乱がないといいのですけれど。 |